被爆体験者訴訟、一部「被爆者」と認める長崎地裁判決 「地区で分断」憤る原告
長崎への原爆投下当時、「被爆地域」外にいたため被爆者として認められていない「被爆体験者」が長崎県と長崎市を相手に被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟で、長崎地裁(松永晋介裁判長)は9月9日、原告44人のうち15人を被爆者と認める判決を言い渡した。投下当時に爆心地東側の旧矢上村・旧古賀村・旧戸石村にいた人たちで、3地区は県と市が1999年度に実施した証言調査で「黒い雨」が降ったことが確認されている。残る29人の訴えは退けた。 この訴訟では、旧長崎市域に沿い「線引き」された「被爆地域」をめぐり「私たちも被爆者だ」とする22人の被爆体験者が2007年に提訴。後に第2陣として43人が原告に加わったが、19年までに最高裁で敗訴が確定。今回は原告が改めて提訴していた。 被爆者援護法に定められた長崎の「被爆地域」は南北に細長く、爆心地から半径12キロ圏内まで被爆者として認められ、援護を受けられる。一方、東西方向では半径7キロ以遠は被爆地域外となり、被爆者として認められない。 「絶対におかしい」――17年にもわたる裁判闘争を率いてきた原告団長の岩永千代子さん(88歳)は多くの仲間から体験を聴く中、特に放射性降下物による内部被ばくの危険性を感じるようになった。風に乗り拡散した燃えカス、灰、ほこりは畑の作物や井戸水に降り積もったが、住民らは気にも留めず野菜を食べ、水を飲んで暮らした。集めた灰を畑の肥料としてまいたという話もあったという。 「口や鼻から降下物を取り込んで体調不良や病気になったのでは。真実を明らかにしたい」と、自らも病を抱え足を引きずりながら仲間を励まし続けてきた。それでも来年で被爆80年。本訴訟の原告もすでに4人が亡くなっている。
広島高裁判決からも後退
長崎での被爆地域拡大を求める動きは1970年代から進められこれまでごく一部の地域について認められたものの、国は2002年に心的外傷後ストレス障害(PTSD)を前提とする「被爆体験者」という新たな概念による支援事業を始めた。だが当初は医療給付を半径12キロ圏内の居住者に限定したり、支援対象となる疾病数を制限したりするなど、援護の枠を小さくしようとする意図が透けて見える内容だった。 「原爆を体験した」は「被爆」ではないのか――そんなモヤモヤした状況に光が差したのが21年7月の広島高裁の判決だった。被爆地域外で「黒い雨」に遭った原告84人全員を被爆者と認めた同判決により、長崎の裁判でも放射性降下物による健康被害への判断が注目された。今年8月9日には来崎した岸田文雄首相が被爆体験者と直接面会した席で「早急に合理的に解決する」と、初めてこの問題に言及。被爆地域の「線引き」への疑義に一定の理解を得られているとの手応えを語る声が被爆体験者や支援者から聞かれていた。 しかし今回の判決は被爆者援護法で3号被爆者として規定される「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」については証言調査に基づく「黒い雨」のみ採用。争点の戦後の米国による放射線量測定データは精度が劣るとして採用せず、灰は放射性物質かどうか定かではないとした。放射能の影響の有無でも「高度の蓋然性」の証明が必要として、広島高裁判決が「放射能による健康被害が生じることを否定できないと立証すれば足りる」とした判断を後退させた。 弁護団の足立修一弁護士は会見で「原告に分断を持ち込むきわめて悪質な判決」と厳しく批判。岩永さんも「この判決は間違いですよ」と声を荒らげ、気象学や物理学など専門家の知見を裁判で積み上げてきたことを踏まえ「(自分たちの体験が)過小評価されることはあってはならない」と訴えた。 判決後も長崎県知事や長崎市長が上京し厚生労働省で「控訴断念が地元の思い」と伝えるなど動きが続く。理不尽な線引きは、在任残りわずかな岸田政権とともに終わらせられるのか。被爆地の厳しい目が注がれている。
橋場紀子・ライター