「松本サリン事件」から20年 事件が残した教訓は? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
長野県松本市で起きた「松本サリン事件」から27日で20年。事件はオウム真理教によるものでしたが、事件当初の捜査や報道はさまざまな教訓を残しました。松本サリン事件とはどんな事件だったのでしょうか。
「謎の毒ガス」で多数の死傷者
1994年6月27日夜、長野県松本市の社宅など数十世帯の住宅で「謎の毒ガス」とおぼしき物質を吸い込んだ結果、翌午後1時までに死者7人を出す大惨事が起きました。他に50人以上が病院に搬送され、なかには後に亡くなった方もいます。生存者は一様に息苦しさなど呼吸器系統や神経系への打撃を訴えており、同じ効能がある有機リン系毒物がまず疑われました。 炭素(有機)とリンの結合体を含んだ化合物は害虫駆除のため広く農薬に使われており、当初の見立てではそれによる中毒ではないか、でした。ただ当時までに用いられていた有機リン系農薬で半径約70メートルという範囲で、死者が多く出た窓の開いていた2階に集中する(つまり空気より軽い)ものは考えにくく、初めから有識者の多くが「症状は似ているものの農薬とは思えない」と発言していました。 長野県警の捜査本部は事件の第一通報者であった河野義行さん(※)の自宅を捜索して多くの薬物を押収したと発表、毒ガスの発生がこの自宅であり、農薬を調合している際に誤ってガスを発生させたとの見立てを示して捜査を進めました。
河野さんを犯人視するような報道が氾濫
この時点で入院中の河野さん自身への取り調べも十分でなく、毒ガスと押収品との因果関係も明らかでないまま、マスコミは「会社員」と匿名ながら河野さんが犯人であるかのごときタイトルで報道し出していました。 6月30日、河野さんは弁護士に事件とは無関係と病院で告げ「私は被害者」と訴えます。3日、捜査本部は河野さんの自宅付近からサリンと思われる物質を検知したと発表します。サリンも有機リン化合物ですが、毒性は農薬などとほど遠い大量破壊兵器の化学兵器で化学兵器禁止条約(1992年署名)で開発、生産、保有を禁じられています。とてつもない毒ガスとわかり、焦点は農薬調合のミスなどで発生させられるかどうかという議論に移りました。専門家も「あり得る」から「できるわけがない」までさまざまな意見がマスコミをにぎわせました。 もっとも専門家とはいえ自身でサリンを生成した者がいるわけでもなく推測の域を出ず、これまたその専門家の知識に遠く及ばない報道陣が「復唱します。メチルホスホン酸ジイソプロピルエステル……で正しいのですよね」と確認して報じるありさまでした。 この発生から7月3日までは河野さんを犯人視するような情報が氾濫。テレビのワイドショーや週刊誌が追随します。特に『週刊新潮』(7月14日付)の「『毒ガス事件』発生源の『怪奇』家系図」という特集は「さん」付けながら河野さんの実名で「有毒ガスの発生源は」「河野宅だった」と「警察の捜査で判明」と断定。出身から今に至るまでの個人情報を詳細に報じ19世紀半ば(本文は西暦明記)生まれの先々代(同実名顔写真付)から「家系」を説き起こし「親戚の話」などでもめごとがあったかのように書いています。「専門家」が話したサリンは「風呂場でも庭先でも」できるという部分は小見出しにして読者を誘導しています。 とはいえ「サリン」登場となってから、少なくとも一般紙の多くは河野さん犯行説を推認させるような記事を減らしていきました。しかし長野県警および捜査本部はその線を最有力視し続けたようで、関係者から多くの聞き込みをするなど大規模な態勢を緩めません。捜査陣もまた化学の知識に乏しく一般の殺人事件の経験値の延長で犯人像を描いていたフシが大いにありました。