山崎賢人・主演「陰陽師0」映画オリジナルストーリーだが、まごうかたなき「原作小説の前日譚」! 映画を観ると原作がさらに面白く
■完璧な前日譚、ふたりはここから始まった!
原作の安倍晴明はだいだい40歳くらい。国政を決める占いをはじめ、暦や天文の業務を司る陰陽寮で陰陽博士の地位にある(実際には晴明の出世はもっと後なのだが、そこは小説ということで)。翻って映画「陰陽師0」の安倍晴明(山崎賢人)は27歳。陰陽師を目指す学生(がくしょう)だが、その能力とはうらはらにやる気のない青年として描かれる。 晴明は幼い頃に両親を殺されるという経験をしており、見たはずの犯人の顔を思い出せないでいた。その相談に寺を訪れた際、居合わせた公達たちから「呪術が使えるのならあの蛙を殺してみせろ」とからまれる(はい、原作ファンの注目ポイントですよ! )。言う通りに「呪術」を見せた晴明だったが、その様子を眺めていたのが源博雅(染谷将太)だ。博雅は陰陽寮に赴き、徽子(よしこ)女王(奈緒)の屋敷で起きている怪異を晴明に相談する。だがその後、陰陽寮では得業生(とくごうしょう・学生のひとつ上の段階)が死ぬという事件が起きて……。 まず、原作第1話「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」で晴明の過去のエピソードとして語られる蛙の話(出典は『今昔物語』)をそう使うか、とにやりとした。それを博雅が見ていたというのは充分あり得る。そして「あんな不思議な術が使えるのなら」と相談に訪れるというのも無理がない。しかも! 原作では不思議な力として描かれていた蛙のエピソードに対して、映画では「実はこういうことなんだ」と解説してくれるのである。その解説のくだりが、素直すぎるがゆえに翻弄される博雅と、斜に構えつつも内心それを面白がっている晴明という、原作の関係そのままなのだ。ああ、ここから始まったんだ──と、すんなり腑に落ちた。 若き日の晴明は生意気で自信過剰。博雅は優しくて素直で、ちょっと鈍い。人として経験を積んで「練れる」前のふたりは、なるほどこうだったのだろうと納得した。映画の中でふたりは共に危機に陥り、そこから脱出する過程で互いが自分にとって大切な存在であることを知るくだりがクライマックス。帝に晴明のことを聞かれた博雅は「無礼な男」と答えるが、それに乗じて女房たちが晴明の悪口を言い始めると怒るのだ。あいつの悪口を言っていいのは俺だけ、という思いが滲み出る染谷将太の芝居が素晴らしい! そしてラストでは原作ファンが萌え死ぬお馴染みのあのセリフが待っているぞ。原作でも序盤から時折登場するセリフだが、晴明が博雅に対して初めて「それ」を言ったのがこの映画の、あれこれをくぐりぬけた末の、あの場面だということになる。感慨もひとしおだ。映画を観た後で原作を読むと、そのセリフが出てくるたびに「始まりはあそこだったんだよなー」と嬉しくなってしまうのだ。