ちゃんこ場で力士と過ごす九州場所、年に一度の「大将」は琴桜初優勝に「うれしかです」 料理人と佐渡ケ嶽部屋、ふぐがつないだ30年超の縁
2024年11月の大相撲九州場所で悲願の初優勝を遂げた大関琴桜が所属する佐渡ケ嶽部屋には、年に一度の「大将」がいる。博多駅近くで老舗のふぐ料理店を営む柿川信登さんは九州場所限定で部屋宿舎の調理場に立ち、時に泊まって力士たちと一緒に生活。「今年は特に“うれしか”です」。気が付けば30年以上もの月日が過ぎていた。(共同通信=田井弘幸) 【写真】名門相撲部OB、「指導」と称した異常な暴力 熱したスプーンを腹に… 扇風機を両手で頭上に掲げ続けるよう命令、体がふらつくと… 上下関係がエスカレート 22年
▽ふぐが結んだ縁で番付に「ちゃんこ長」 福岡市東区西戸崎に構える佐渡ケ嶽部屋の九州場所宿舎。親方らの他、力士の番付や名前が書かれた稽古場の木札の最後に「ちゃんこ長 柿川」がある。どこの相撲部屋にも木札はあるが、マネジャーを含めた部屋の一員以外の人物が掲げられるのは極めて珍しい。親しみに遊び心を加えた待遇で、琴桜の父で師匠の佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)は「大将はうちの部屋の人なので」とほほ笑む。 1950年11月28日生まれで74歳の柿川さんは、ふぐが大好物の佐渡ケ嶽親方が現役だった24歳の時に出会った。今年で開店45年になる「九一郎」に週3度のペースで来店してくれたお返しにと、当時は福岡県久山町にあった部屋宿舎へ差し入れを届けに行った。 すると下関唐戸市場のふぐが別で差し入れられていた。さばける人が誰もおらず「私がやりましょう」。この日を境に部屋のまな板の前に立ち始めた。当時の師匠で元横綱琴桜の鎌谷紀雄さん(故人)と佐渡ケ嶽親方の温かい人柄、部屋の活気ある雰囲気に魅了されたからだった。 佐渡ケ嶽部屋には、かつて悲しい出来事があった。九州場所の1963年11月、部屋のちゃんこで18歳の力士2人がふぐ中毒で死亡。この教訓から現在の師匠は「うちの部屋はふぐで大変なことがあったので…。あの日は大将にお願いするしかなかった。こちらが差し入れのお礼をしなければいけないのに、快く引き受けてくれた」と話す。ふぐが縁を結んでくれた。
▽毎月2度の宿舎通いで「みんなを待っとるんです」 当初は店の準備と並行し、柿川さんは1、2時間程度の手伝いだった。先代師匠に「九一郎さん、ここには来ちゃいけないよ。お店があるんだから、ちゃんこ場に入っちゃいけないよ」と言われた。こういう気遣いが逆に背中を押すもので「『無理はしませんよ』と言いながら、いつの間にか幕下の大部屋の真ん中で寝ていた」と懐かしむ。先代師匠が生前に柿をむいていた包丁は、今も大事に使っている。 2015年から現在の部屋宿舎に移転した頃には、関係性はさらに深まった。 年に1度しか使用しない常設の建物をきれいに維持するため、柿川さんは11月を除く毎月1日と15日には宿舎へ出向き、全ての窓を開けて風を入れる。稽古場の土俵に水をまき、上がり座敷を磨く。神棚の榊を入れ替え、周辺の草むしりもするという。「西戸崎まで車で1時間、掃除で1時間、店まで帰って1時間。こうやって、みんなを待っとるんです」 九州場所番付発表に合わせ、部屋の全員が下旬に福岡入りする10月は、さらに気合が入るという。今年は第1日曜日に仲間と出向き、いつもの作業より範囲を広げての草刈りを行った。力士のぼりを立てるスペースにまで伸びた木は、専門業者に伐採してもらった。処理した草木の分量は2トントラック2台分。稽古場の木札にはカンナをかけ、10本以上もある自身の包丁も入念に研いだ。