なぜ元プロ野球出身選手より先に“最年長女子”宮地静香がクリケット日本人初のプロ契約を結べたのか
宮地は、兵庫県西宮市出身で武庫川女子大付属中、高時代は陸上部に所属していた。甲子園球場の傍という環境もあって野球が大好きで同志社大に入学した2001年に学科の先輩の勧誘を受け「野球の起源のスポーツ」だとも聞かされクリケットの世界に足を踏み入れた。以来、21年間、クリケットと共に人生を歩んだと言っていい。 「ひとつできるともっとうまくなると思えて楽しい。その気持ちは今でも。可能性に限りがないのが魅力」 大学院時代の結婚を機に現在は日本のクリケットの拠点となった佐野市に移住した。それが2006年。卒論の発表と代表の試合が重なったが、「勉強は50歳になってもできる」と大学を辞めることを決意して、バイトをしながら、クリケットに本腰を入れ、その年に代表デビュー。めきめきと実力を発揮して2010年にアジア大会で銅メダルを獲得し、2011、2012、2016、2017年と年間最優秀女子選手に選ばれ、2019年の東アジアカップでは最優秀打者賞を受賞した。 「海外のプロでやりたい」の意識が芽生えたのは2014年頃。クリケットだけでは、生計が立たないためクリケット協会でパートタイムで働いていたが、トレーニングに専念するため、現在は「やさしい旦那さまに養ってもらっている(笑)」という。 去年の11月で40歳になった。 「おそらく大会参加者で最年長でしょう」 だが、年齢をハンデだとは思っていない。年齢に合わせてトレーニング方法を変えてきた。これまではクリケットの技術練習に重きを置き、それを日に3、4時間行ってきたが、2年前から週に4、5日、フィジカルトレーニングを3時間、クリケットの技術練習は30分と時間配分を大きく変えた。152センチ、48キロと小柄だが、そのことで「思い切りバットを振らなくともボールが飛び、ボールを追いかける反射スピードも速くなった」という。
日本人プロ第1号として今大会に爪痕を残して伝えたいものがある。 「小学校時代から教えてきた」という日本代表の藤川季与、金井流天(いずれも佐野ブレーブス)の高校3年コンビに「次に続いて欲しい。さらに努力をして欲しい」との思いだ。パイオニアとして日本人の存在感を世界へ示して次世代への道を開きたい。 男子では、プロ野球の横浜、広島、西武でショートストップとして活躍した木村が、豪州やスリランカの海外チームでプレーするなど、次なるプロ契約を勝ち取ろうと必死にもがいている。 現在の日本のクリケットの競技人口は約4000人。佐野市のバックアップを得て本拠地としている佐野市国際クリケット場には、6面のグラウンドが完成している。2002年には660人しかいなかったことを考えると競技人口は飛躍的に伸びているが、まだまだマイナー競技の域を脱することができていない。 「将来は代表のコーチをしたい」との目標を持つ宮地は、母校の武庫川女子大にクリケット部を創設し、そこを拠点に後進を育てたいとの壮大な夢も抱く。 「母校は中、高、大学と一貫教育をしているので、10年間、続けてクリケットができれば良い選手ができます。それが希望です」 ただプロ契約を勝ち取った今回のドバイでの15日間がゴールではない。あくまでも次なる夢への通過点に過ぎない。 「これが終わりじゃない。大会で結果を残して他の国のトップレベルのチームとプロ契約してもらえるようになるのが目標のひとつ」 宮地は5月にドバイで日本のクリケット界にとって大きな第一歩を踏み出す。 (文責・論スポ/スポーツタイムズ通信社)