海底1キロまで掘った大炭鉱で爆発炎上…日曜劇場の舞台・軍艦島が「閉山のカウントダウン」を始めた決定的瞬間
■端島の保安要員10人が大ヤケドを負い、病院に運ばれた 翌18日の朝刊では、写真入りで続報を展開し、保安要員のケガは軽症から重症に訂正されている。 ---------- 盆休みの終わった17日昼前、西彼端島炭鉱の坑内で石炭層が自然発火。充満したガスがごう音とともに燃えひろがり、保安要員10人が全身にやけどをして重傷を負った。 同日午前11時40分ごろ、西彼高島町端島、三菱鉱業高島鉱業所端島抗(松倉慶次鉱長)の坑口から約三千メートルの九片七目貫きと八目貫きの沿層坑道で、同鉱の抗務課長代理、稲池昭雄さん(42)ら保安要員10人が自然発火した石炭層に注水作業中、突然ごう音とともに火が燃えひろがり火と煙に包まれた。 近くでごう音を聞きつけた鉱員がただちに救出作業をして同日午後0時半ごろまでに全員を助け出し、同鉱付属端島病院に運び込んだ。稲池さんらは酸素吸入、血清注射などの手当てを受けているが、10人とも全身に第二度火傷と打撲傷を負い2週間から3週間の重傷。また坑内にはこのほかに鉱員94人と下請け鉱員30人がいたが無事だった。 同鉱ではただちに藤瀬正抗務課長ら保安要員が現場に行き、注水で消火作業を行うほか、酸素をしゃ断するため坑道を密閉する用意もしており、二次燃焼を警戒して午後4時の二番方から坑内への立ち入りを禁止した。(長崎新聞1964年8月18日朝刊) ---------- 掲載された写真は、端島の病院でケガをした鉱員たちがベッドに倒れ、医師の手当てを受けている様子。事故発生時の緊張感が伝わってくる。 ■坑道でごう音とともに爆発的な火災が起き、火と煙に包まれた 端島の炭鉱は8月14日から16日まで盆休みだった。17日から炭鉱夫たちが三交代制の仕事を再開しようとしていたところ、夜中の2時半ごろ、パトロールをしていた職員が地下940メートルの現場で石炭が自然発火し黒煙をあげているのを発見し、10人で注水などをして消火作業にあたった。いったん午前6時すぎには火が消えて、「もう大丈夫」と、胸をなで下ろしたという。最初の火事は小規模だったと思われる。 しかし、その直後、石炭の自然発火で不完全燃焼した一酸化炭素とメタンガスが高さ約4メートル、幅4メートルの坑道の天井部分に充満し、突然燃え広がった。「ごう音」という描写から、まるで爆撃のような火災だったと想像できる。即死者が出なかったことが不思議なぐらいだろう。 当時は日本全国に炭鉱があった。1964年ごろには全体的に石炭の生産力が落ち、一時は16炭鉱を所有した三菱鉱業も福岡の筑豊など老朽山を整理。北海道の「大夕張」、端島に近い長崎の「高島」、そして「端島」という優良炭鉱に人員を集中させていたが、それでも炭鉱事故は毎年のように起きていた。