2025年大阪万博はどうあるべきか──「文明への畏れ」から出発を
「いのち」というテーマと「文明への畏れ」
テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だという。 「抽象的」という声もあったが、未来に向かって生命の原点に立つという意味で、悪くはない。そこから発想を広げていくべきだ。 前に(参照THE PAGE「再生のモデルは新興国にあり」──文明の大転換に取り残される日本」)江戸から明治への変革を「農業社会」から「工業社会」への変化とし、現在は「工業社会」から「情報社会」への転換を迫られている、と書いたが、情報より生命の方がいいかとも思う。 僕は、現在の人類が直面している文明を「原子力・遺伝子・電子脳」として、いずれも「子」の字がついていることから「三子文明」と呼んできた。ニュートンの力学を超えて質量をエネルギーに転換する原子力、生物の根源を操作する遺伝子技術、そしてすでにおそるべき能力を発揮しているコンピューター、インターネット、人工知能(AI)すなわち電子脳である。 これらはいずれも、物理の本質、生命の本質、人間の本質に関わるものだ。いわば人類の分限を超えて「神の領域」に近づくものだ。そこにある種の「畏れ」を感じないではいられない。 人類は自らの知能に増長し、地球という惑星の奇跡「生命の薄層」(参照THE PAGE「『異常気象』と憲法改正―自民党総裁選三選の安倍首相に求めたい新理念」)を汚し、生物としての人間性を喪失し、自身の首を絞めているのではないか。 今、人類は「畏れ」を知るべきだ。 神(特定の宗教を意味しない)への畏れ、文明への畏れを知るべきだ。三子文明は、まず「畏れ」から出発するべきだ。 2025年大阪万博における「いのち輝く未来社会のデザイン」もやはり「文明への畏れ」から出発すべきではないか。そして今の日本は、科学技術もいいが、それに加えてマンガ、アニメ、ゲームなどファンタジックなコンテンツ、あるいは料理、着物、工芸などの、伝統も含めた感性を前面に打ち出すべきではないか。