【山手線駅名ストーリー】日暮里・西日暮里駅 ― 昭和30年代まで山手線の駅に蒸気機関車が走っていたなんて!(山手線ではありませんが…)
日暮里は谷中銀座の最寄り駅
日暮里は「谷根千(谷中・根津・千駄木)」の中でも人気が高い「谷中」の最寄り駅である。日暮里駅西口を出て、ゆるやかな御殿坂をのぼって徒歩6分ほど。通称「夕やけだんだん」の階段を降りると、その先が谷中銀座商店街だ。昭和の雰囲気を残す風情ある街並みと個性豊かな店が多い人気エリアで、外国人観光客の姿も目立つ。 日暮里駅西側に広がる谷中霊園は、徳川幕府15代将軍・慶喜、1万円札の顔・渋沢栄一や日本画家・横山大観ら多くの著名人が眠る墓所として知られる。 谷中霊園は江戸時代、幕府の庇護(ひご)を受けた天王寺(旧感応寺)の地所だった。敷地3万坪の広大な寺院で、「富くじ」の開催地として人気だった。富くじは神社仏閣が販売していた今でいう宝くじで、天王寺は文化年間(1804~1818)、湯島天神、目黒瀧泉寺(目黒不動尊)と並ぶ「江戸の三富」と呼ばれた。当選金は最高で1000両、現在の価値に換算して1億2000万円だったという。
ところが高額当選金を手にして放蕩(ほうとう)三昧で身を滅ぼしたり、大量に購入して破産したりする者が現れた。幕府は風紀の乱れを危惧し、1842(天保13)年、全面禁止の措置を下した。 その後の天王寺は、数奇な運命をたどる。幕末、上野が戊辰戦争の舞台となると、上野寛永寺と天王寺に彰義隊が立てこもり、境内は官軍の攻撃を受け大半が焼失した。1870(明治3)年には敷地の約半分を明治新政府が召し上げ、その4年後には東京府が共同墓地とした。 戊辰戦争の戦禍を免れた五重塔は文豪・幸田露伴の小説『五重塔』の舞台となったが、それも1957(昭和32)年に火災で焼失。不倫関係にあった男女が焼身自殺したのが原因だった。塔は再建されず、現在は土台だけが残った跡地が保存されている。 御殿坂の右手にある本行寺は別名「月見寺」と呼ばれ、月の名所だった。江戸城内にあった日蓮宗の寺院が移転してきたもので、小林一茶と種田山頭火の句碑がある。 <青い田の 露をさかなや ひとり酒(一茶)> <ほっと月がある 東京に来てゐる(山頭火)>