【山手線駅名ストーリー】日暮里・西日暮里駅 ― 昭和30年代まで山手線の駅に蒸気機関車が走っていたなんて!(山手線ではありませんが…)
面白いのは日暮里駅の北に位置しているのに、名称が「西日暮里駅」となったこと。この理由は、日暮里駅を境に東が荒川区東日暮里、西が同西日暮里という町名になっており、駅を建設した番地が西日暮里5丁目だったからである。 西日暮里駅は日暮里-田端約1.3キロの間に新たに誕生し、日暮里からは約500メートル、田端からは約800メートルだった。日暮里-西日暮里間は山手線最短、西日暮里-田端間は4番目に短い。ちなみに、短い区間2位は上野-御徒町の600メートル、3位は神田-秋葉原、巣鴨-田端、新宿-代々木で、同じく700メートルである。
日暮里の語源は「新堀」か?
「日暮里」の地名が、風光明媚(めいび)な情景にみとれているうちに日が暮れていく=「日暮らしの里」に由来するといわれるようになったのは、江戸時代の享保~寛延(1716~51)の頃だった。 だが、実は1448(文安5)年の『熊野神領豊嶋年貢目録』に「三百文 につほり妙円」の文字があり(図録荒川区史)、これが文献上の初出だ。つまり、15世紀半ばには地名として成立していたと考えられる。 おそらく武蔵国豊嶋郡(現在の東京都23区南東部)に熊野大社への信仰が根づいており、「につほり」に住んでいた僧侶・妙円が300文を納めたのだろう。「につほり」は仮名で記されていたが、漢字では、「新堀」だったのではないかとの説が有力だ。 地名研究家の谷川彰英は、農業用水などに利用する「新しい堀を開墾したことに由来すると考えるのが自然」と述べている(東京・江戸 地名の由来を歩く)。江戸時代に「日暮らしの里」と呼ばれるようになると、「新堀」の地名に、「日暮里」の文字を当てるようになったと考えるのが妥当だろう。 「新堀」の由来については他にも、「室町時代後期の武将・太田道灌配下の新堀玄蕃が住みついた」(江戸名所図会)、「戦国時代の後北条氏が記録した『小田原衆所領役帳』に名がある遠山弥九郎が、土塁と掘を築いた」(新編武蔵風土記)などの説があるが、いずれも信ぴょう性は低い。 太田道灌が豊嶋郡に進出したのは長禄年間(1457~1460)頃で、「につほり妙円」が300文を納めたのより10年ほど後のこと。新堀玄蕃が住んだのが事実だったにせよ、その前から「につほり」の地名はあったことになる。 『小田原衆所領役帳』に至っては16世紀前半のもので、太田道灌よりもさらに後の時代であり、遠山弥九郎が「堀を造った」記録が残っているわけでもない。いずれも、後世の創作の公算が高い。 「新堀」は、東京都江戸川区や山形県酒田市、埼玉県新座市、新潟県三条市、富山県射水市、山口県周南市など全国各地にあるありふれた地名だ。それが、ある地域でたまたま「日暮里」という新しい息吹をふきこまれたのではないだろうか。