【足立区バラバラ殺人】生徒から人気の女性教師(26)が警察官の夫(28)を殺害→世間からも同情を集めたワケ(1953年の事件)
「加害者女性」と「被害者男性」が出会った理由
富美子は1927年(昭和2年)、大阪の裕福な綿問屋の4人兄妹の長女として生まれた(兄1人、弟1人、妹1人)。母シカの愛情を受けて何不自由なく成長し、1944年に高等女学校を優秀な成績で卒業する。時を同じくして米軍からの空襲が激しくなり、家は店を閉め、父の郷里の山形県米沢市へ疎開。空襲により家は財産を失ったものの、富美子は米沢で教員養成所に通う。伊藤と出会うのは終戦翌年の1946年春。まさか、後に自分が殺めることになる相手とは想像もしなかった。 一方、伊藤は1924年(大正13年)、山形県置賜郡豊川村(現・飯豊町)で生まれた。1941年から徴用工として川崎市の日本光学で勤務し、1944年に召集。復員後は仙台市で古物商の父を手伝いをしていた。富美子とは、継母が彼女の母親シカの実姉であった関係から自然と知り合い一目惚れ。頻繁に恋文を出し、想いを伝え続けていた。
しかし、富美子は伊藤になびかず、1947年から単身で大阪に戻り小学校教師として働き始める。1人で部屋を間借りし、月給7千円(現在の貨幣価値で約28万円)から毎月2千円を実家に送る日々。苦しい生活を余儀なくされていた父母の支えになることが最優先で、伊藤からいくら積極的にアプローチされても、それを受け入れる余裕などなかったのである。 大阪で教師に就いて2年が経過した1949年、彼女のもとに伊藤から知らせが届く。なんでも、2年前に上京し、昨年警視庁巡査を拝命、現在は板橋区の志村署に勤務しているという。もっとも伊藤の手紙には、上京後に浅草で露天商となり、テキ屋仲間と付き合っていたことは書かれていなかった。 近況を知らせるこの手紙をきっかけに2人は再び連絡を取り合う仲となる。実は、富美子は大阪で同僚の男性教師に心を奪われ本気で結婚を考えていたものの、相手にその意志はなく関係が消滅していた。そんな頃合いを見計らったように届いた伊藤からの手紙。彼女は一途に自分のことを慕ってくれる伊藤のことを本気で考えるようになり、その後、頻繁に手紙を交換する。
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