“芸人”を貫いた「今田耕司」と“テレビタレント”を選んだ「中山秀征」 芸人を諦めたヒデちゃんの複雑な胸の内
1993年にフジテレビ系のバラエティ番組『殿様のフェロモン』で初共演を果たした、中山秀征(57)と今田耕司(58)。 【写真】中山秀征が“天才”と称賛した飯島愛 安田講堂前でカメラマンに取り囲まれる 東京での初司会に意気込んで“殺気”を放つ今田と、ワイワイ和やかな空気で番組を進めたい中山は終始噛み合わず、番組はわずか半年で終了してしまった。 それから15年後に、今田が中山を呼び出して当時の胸中を明かしたのをきっかけに2人は和解。今では“ヒデちゃん”“今ちゃん”と呼び合う仲となったが、当時、複雑な心境ゆえに中山もまた意地を張っていたのだという。 一時はお笑いコンビ「ABブラザーズ」としてもてはやされた中山は、芸人の道を諦めたとき、何を思っていたのか。 中山が芸能人生を振り返りながら、自身の仕事術や人生哲学を語り尽くした著書『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』(新潮社)から、当時の思いを紐解いてみよう。 ※以下、同書より引用・再構成しました。 (全3回の第3回) ***
ABブラザーズとお笑い第3世代の“波”
中山秀征と松野大介のコンビ「ABブラザーズ」を覚えている方は、40代以上でしょうか。「学園コント」や、都市伝説(興味のある方はネット検索してみてください)と共に語られることも多い「野球コント」など、名刺代わりのネタはありましたが、今の時代の“お笑いコンビ”とはスタートから大きく違いました。 1984年、憧れの渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)に入ったものの歌も芝居もイマイチだった僕は、16歳で早くも首筋が寒くなってきた頃、マネージャーの関口雅弘さんに呼ばれ、こう言われました。 「中山、テレビはこれからバラエティの時代になるぞ!」 当時から『8時だョ! 全員集合』(TBS系)や『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)など人気バラエティは多くありましたが、関口さんによると「これからは、歌番組やドラマ以上に、バラエティがテレビの中心になる」のだと。「中山、お前がやりたい歌や芝居は、バラエティで天下を取ったら必ずできるから」と力説され、僕は事務所に新設されたお笑いプロジェクト「BIG THURSDAY(ビッグサースデー)」の1期生となりました。 そこには、まだ痩せていた石ちゃん(ホンジャマカ・石塚英彦)や、のちに日本を代表する脚本家となる三谷幸喜青年をはじめ、寺山修司への憧れを語るスキンヘッドの男、東北訛りの漫談師など、今でいう“地下芸人”のようなアングラな人たちも含め10名ほどが集められ、初めて経験する“バラエティのレッスン”で切磋琢磨していました。 レッスンは、大ヒット番組を手掛ける有名ディレクターや、キー局のアナウンサーを講師に迎え、ネタ作りの構成、コントの演じ方、フリートークなど、テレビ出演につながる実践的な内容でした。しかも講師陣はかなり豪華な布陣で、今だったら、相当高い授業料を払わないと受けられないレッスンだったかもしれません。 そんなレッスンと並行して、渋谷109にあったライブハウスで、若い観客向けの「お笑いライブ」を開催していました。ダンスから始まり、歌にトークに集団コントにと、エンターテインメントSHOWを若手なりに演じるライブです。 ここで僕は、ピン(個人)で活動していた3歳年上の松野さんと出会い、「ABブラザーズ」を結成するのです。 翌85年4月に『ライオンのいただきます』(フジテレビ系)のレギュラーとしてテレビデビューし、秋には『オールナイトニッポン(1部と2部の4時間)』(ニッポン放送)のオーディションにも合格するなど、まさにロケットスタートを切り、自分で言うのもアレですが、アイドル的な人気を博しました(女子中高生からキャーキャー言われてたんです。いや、本当に)。 もっとも、ロケットスタートできた理由は、1985年デビューという絶妙なタイミングにもありました。 翌年には、東京・渋谷で「ラ・ママ新人コント大会」が始まり、大阪では心斎橋筋2丁目劇場が“吉本の劇場”としてスタート。東のウッチャンナンチャン、西のダウンタウンを筆頭とする、お笑い“第3世代”ブームへ、大きな起点となったのが、1986年です。 その前年に全国ネットのテレビ番組でデビューできた僕らは、厳密にいえば第3世代ではないものの、“お笑いってカッコいい”“若い人が見るもの”といった空気が醸成されつつある中、タイミング良く世に出られたため、いち早く時代の波をキャッチできたのです。