“芸人”を貫いた「今田耕司」と“テレビタレント”を選んだ「中山秀征」 芸人を諦めたヒデちゃんの複雑な胸の内
結成5年目でマネージャーに告げられた「負けを認めろ」
ところが、少し早く出過ぎたうえ、想像以上に忙しくなり、今度は「波」に飲み込まれます。1989年、僕らは、なぜか“第3世代”として、ランキング形式のネタ番組に出演することになりました。 しかし、テレビを主戦場とし、新ネタを作る機会もなくなっていた僕らは、毎回、過去ネタの焼き直しをするしかない。毎週、精度の高い新ネタを披露するウッチャンナンチャンやB21スペシャルらライブでネタを積み上げてきた“リアル第3世代”に徐々に水をあけられるようになり、結成5年目にして「ABブラザーズは古い」と烙印を押されてしまいました。 「忙しくてネタ作りができなかっただけ。しっかり新ネタを作れば勝てます!」 「第3世代っていうけど、みんな俺より年上だし、俺たちは古くなんかない!」 現実を受け止められず、勝負したいと息巻く僕に、関口さんはキッパリ言いました。 「中山、負けを認めろ!」と……。 コンビとしての関係性も志も、そして実力も、ダウンタウンやウッチャンナンチャンとは違う。そんなコンビが、“お笑い”で戦いを挑んでも「敵わない」という事実を、関口さんは、「バラエティの時代になる!」と教えてくれた5年前と同じように力説しました。 この時の思いを、僕は松野さんに伝えたことはありません。でも間違いなく、二人ともが、あの日、「ABブラザーズの終わり」を確信したと、僕は思っています。 この日から僕は「お笑いコンビとしては負けた。でも一人のタレントとしては同世代の誰にも負けない」と、密かに誓いを立て、コンビ活動からピンの仕事にシフトしていきました。 そして相方の松野さんも自分のお笑いを求め、ライブ活動などにますます力を入れるようになります。 ABブラザーズの最後の仕事は、1991年10月、『DAISUKI!』の収録でした。僕がMCになる1年前、ゲストに呼んでもらったこの番組への出演が、結果的にコンビの最後のテレビ出演になったのです。 場所は、たしか茨城のレース場。相方と松本さんや飯島さんと、豪雨の中みんなでカートレースをして……。びしょびしょに濡れたけれど、やたら楽しかった。そんな記憶が残っています。 「そろそろ」と覚悟はしていたけれど、「これがコンビで最後の仕事」なんてどちらも思っていなかったので、楽しいロケをしたまま別れて、結局、それっきりになってしまいました。 その1年後に、この番組で、MCのキャリアをスタートしたことも含めて、つくづく、『DAISUKI!』は、僕にとって運命的な番組です。 「お笑い」からのキャリアチェンジを決意した1989年。 元号が、昭和から平成に変わったこの年は、僕にとって“テレビタレント元年”でもあります。 その4年後、『殿様のフェロモン』のスタジオで“お笑い芸人”として挑んできた今田さんに対し、“テレビタレント”の姿勢を貫いた裏には、「お笑い」への、このようなちょっと複雑な思いもあったのです。 *** 今田との衝突と和解を経て、中山はこの著書で「明るく生きるヒント」として以下の3つを挙げている。 ・互いに受けて面白さを引き出し合い、「番組全体」を盛り上げる ・負けは終わりではなく、キャリアチェンジの始まり ・己の信念を貫く「戦い」から見えるものもある 若気の至りは誰にでもあること。しかしそれを前向きに活かせるか、時を経たのちに素直に反省できるかで、人生は大きく変わるのかもしれない。 中山、今田の「因縁」が生まれた険悪すぎる収録現場の実態については、第1回記事(中山秀征「生放送でオレを潰しにきている」…和解まで15年かかった今田耕司との“最悪な出会い”を語る)で、15年後の心温まる和解の席については第2回記事(「今さら何だ?」最悪の出会いから15年後に今田耕司が中山秀征を呼び出し…明かされた当時の心境とは)で紹介している。 Book Bang編集部 新潮社
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