【都市化の残像】東京駅 日本人の心に染み付いた「明治=赤煉瓦」
もちろんウィリアム・モリスの影響も見逃せない。 コンドルが離れるころから英国建築界に大きな地位を占めたモリスは、建築家でもあり、文学者でもあり、社会主義運動家でもあり、アーツ・アンド・クラフツ運動の指導者でもあった。英国世紀末の芸術潮流をリードしたモリスは、石造の古典主義建築を嫌い、赤煉瓦のゴシック風建築を愛した。バージェス、モリス、コンドルには、共通する中世主義的な傾向があり、それが日本の建築界にも移植されているのである。 そこに、夏目漱石につながる線がある。 ロンドンに留学した漱石はモリスの詩集を全巻買い込んでいる。モリスと交流の深かったラファエロ前派の画家たちの漱石に対する影響は、江藤淳ら漱石研究家の指摘するところだ。英国アール・ヌーヴォーの憂愁は、『それから』などの作品にもよく現れている。 建築を建築界の中だけで論じる必要はない。日本の建築家、建築史家は、ほとんどが工学部出身であるため、このあたりの文化的な視点が欠けている。明治後期から大正前期における、文学、美術、建築には、モリスから漱石に伝わった、英国世紀末のメランコリーが色濃く反映されているのだ。特に辰野金吾には、長男隆(ゆたか)が漱石に私淑していたという関係もある。漱石が死因となるほどに胃を悪くしたのは、辰野隆の結婚式で豆を食べ過ぎたためとされている。隆はその後、東京帝大仏文科の名物教授となり、弟子として三好達治、小林秀雄、太宰治など名だたる文学者を輩出した。大江健三郎は孫弟子に当たる。コンドル、モリス、辰野、漱石には、建築と文学を巡る円環のようなつながりがあるのだ。 建築はその時代の総合的な文化の空気がつくる。漱石はその空気の中心にいた。 とはいえ漱石の作品によく登場するのは、死の少し前に完成した東京駅ではなく、自身が松山、熊本に勤務したこともあって、青雲の志を抱いた若者たちが西から上京した新橋駅である。