【都市化の残像】東京駅 日本人の心に染み付いた「明治=赤煉瓦」
たしかに日本の風土には木造建築が適していたし、それが圧倒的な伝統文化となってもいる。しかし近代的な大都市を埋めるには決定的な弱点があった。 火事に弱いことだ。木造密集家屋は燃料庫のようなもので、江戸の火消したちは周囲の家屋を引き倒して燃料を断つことによって、火災の拡大を防ぐほかなかったのである。 都市化が進むとともに、煉瓦造の耐火性能が見直されていく。 まず眼をつけたのは軍であったが、コストの関係で進まず、鉄道関係の施設が先に取り入れたようだ。不燃であることとともに、文明のイメージがあったからだろう。そして学校や銀行がこれに続いた。その設計者として活躍したのが辰野金吾である。 ここでわれわれは、明治10年に来日したジョサイア・コンドルという人物に眼を転じる必要がある。 弱冠25歳であったが、ウォートルスとは違って本格的な洋風建築の教育者として政府に招かれた英国建築界のエリートである。工部大学校(まもなく帝国大学工科大学となる)の教授となって何人かの弟子を育てたあと、建築家として活動する。彼には、日本文化への強い好奇心があり、また創造的な設計者としての自負もあり、単に政府が求める洋風(多分に古典主義的な)の建築をつくることには抵抗があったようだ。 18、9世紀のヨーロッパには、建築ばかりでなく、音楽にも、絵画にも、文学にも「古典主義」対「ロマン主義」という構図が存在した。古典主義はギリシャ神殿風の石造建築につうじ、ロマン主義はゴシック時代の赤煉瓦建築につうじる。ヴィクトリア時代後半の英国知識人には、国家の権威を感じさせる古典主義様式に対する反発とともに、ロマン主義的な中世志向、東洋趣味の傾向があり、コンドルもその一人であった。その動きが、世紀末に向けて、アール・ヌーヴォーという潮流につながっていくのだ。 コンドルは日本人を妻とし、浮世絵を習得し、日本に永住した。 そのコンドルが教えた第一期生の中で、もっとも成績が良く大学に残って教授となったのが辰野金吾である。つまり辰野にも、コンドルのロマン主義的な作風が流れ込んでいるのだ。卒業してすぐイギリスに渡り、コンドルの師であるウィリアム・バージェスの事務所ではたらいているが、このバージェスもまた、古典主義を嫌う、中世的な作風の人物であった。 それが東京駅の赤煉瓦につながっていく。