文化と暴力は地続きだった…ある演奏会で味わった「ガツンと殴られたような経験」から考えたこと
「ハンガリー人だけが分かってくれるだろう」
ハンガリー・ユダヤ人の絶滅収容所への移送までの経緯、冷戦中の東欧諸国を取り巻く国際政治の力学、減少の一途を辿った国内ユダヤ系人口、アラブ諸国との機微な関係、そして体制転換後のネオリベラリズムへと突き進む中での「反・反ユダヤ主義」という虎の子――ドイツのようなホロコーストへの反省や「想起の文化」の教条化によってではなく、グロテスクな権力への欲望という危ういバランスのもとにイスラエル支持が成立しているのが、ハンガリーの事例だと言える。 それは、ハンガリー側の一方的な思惑ではなく、イスラエル側の恣意をも反映するものである。 先述のクレズマー演奏会に登場したカステルは、イスラエル国籍者でもあるが、実は、ルーマニア・トランシルヴァニア地方のアラドという街の出身の、ハンガリー人でもある。元々ハンガリー領であったカルパティア山脈にまたがるトランシルヴァニアは、第一次世界大戦の講和条約として結ばれたトリアノン条約の調印により、ルーマニアに割譲された地域である。しかし、それから100年の歳月が流れた今でも、トランシルヴァニアはハンガリー語を喋り生活するハンガリー系の街が点在する土地であるため、オルバーン政権を筆頭に、ハンガリーの右派勢力にとって「トリアノン」とは一方的に戦勝国によって引かれた国境の不当さと民族の屈辱を示唆するものとしてネガティブに語られる。 カステル自身もハンガリー系のトランシルヴァニア住民で、イスラエルに移住してからもハンガリーの時事を追ってきた人物だ。そのカステルが言う――「トリアノン条約のトラウマを生きるハンガリー人だけが、勢力によって正義が生まれるのではないということを十全に理解している」。 カステルのこの発言は、ハンガリーが国連などの場でイスラエルに対する非難決議に反対票を投じ続けてきたことをどう考えるかという問いへの回答だ。彼は、ハンガリー人がイスラエルの側に一貫して立ってくれることに、以下のような感謝の言葉も語る。 「[国連]決議が多数決で採択されたという事実が、その内容を正しく、高潔なことにするわけではないということも、ハンガリー人は理解している。イスラエル人が中東で唯一のリベラル・デモクラシーを擁護しているかたわら、ひっきりなしの批判を受けている時、その我々がイスラエルで経験していることを心と頭で理解できるのはおそらく、ヨーロッパでは唯一、ハンガリー人だけかもしれない」(*7) カステルの言葉を読みながら思い出すのは、ヘルツルがハンガリーのシオニズムについて書き残した言葉だ――「ハンガリー・シオニズムは赤白緑でしかあり得ず、自分もハンガリーではシオニズムに病むほど夢中になることはない」(*8)。つまり、ハンガリー人であることによるナショナリズムが、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムに取って代られることはなく、そこでシオニズムのように見えるものは、ハンガリー(人)が持つ強烈なナショナリズムと何も違わないということだ。 カステルが背負っているものは、青い星(イスラエル国旗)ではなく、赤白緑(ハンガリー国旗)のシオニズムなのではないだろうか。そしてそれは、ハンガリーとイスラエルの双方に基盤をもつカステルという人間の、複雑なナショナリズム感情の発露に他ならない。 (*1)第二次大戦前のワルシャワでは、ヨーシフ・トゥンケルが「ワルシャワのスピノザ(Shpinoza in Varshe)」なる小作品を東欧ユダヤ人たちの言語であったイディッシュ語で発表している。「20紀初頭にもしスピノザが生き返って、ワルシャワに現れたなら…」という世にも奇妙な設定のこの物語は、ロシア帝国領から独立ポーランドの首都となったワルシャワという(世俗派、共産主義系政党、シオニスト組織などが入り乱れた)街におけるユダヤ系住民のポリティクスの風刺にもなっている。詳細は以下の記事を参照されたい。 Nadler, Allan. “Spinoza in Warsaw: Fragments of a Dream By Yoysef Tunkel.” The Jewish Review of Books (Summer 2020): https://jewishreviewofbooks.com/articles/7852/spinoza-in-warsaw-fragments-of-a-dream/?# (*2)「ハンガリー・ユダヤ博物館」とは別に、「ハンガリー・ホロコースト博物館」もブダペシュトには存在する。 (*3)この「平和」に関するロジックは、ロシア・ウクライナ戦争に対しても同様に用いられる。つまり「平和」こそが至上命題である限り、ウクライナ人も戦争の終結を考える義務があるという、いわゆる「停戦論」がこれに接続される。つまり、どうあってもロシア側に都合の良い論理を生み出すために、「平和」の意味が転用されているのである。 (*4)とはいえ、イスラエルへの移住の大部分は、第二次大戦集結からイスラエル建国までの数年のうちに起こった。上述したように、戦前は――若きヘルツルもそうであったような――同化を推進する「ネオログ派」が多数派であったハンガリーだが、虐殺の経験を越えたあとは、加害者としての側面も併せ持つハンガリー社会への「同化」を期待する者は減っていたからだ。また、スターリン亡きあとの1956年、社会主義改革派路線の動きをソ連(とハンガリー軍)が軍事力によって弾圧した「ハンガリー動乱」(一部「ハンガリー革命」とも)の際にも、改革派側として集会やデモ、戦闘に参加した市民20万人が、逮捕・拘留・拷問を恐れ、難民となった。そのうちユダヤ系住民の数は、当時の人口構成比から考えればかなり多く、全体の2割(約4万)にも及んだ。その中からおよそ9千人がイスラエルに移住したというデータもある。戦後すぐには14万人いたユダヤ系人口はこうして社会主義時代に減り続け、1990年代には6万を切り、現在では4万人程度しか残っていない。 (*5)目下オルバーン政権下(現代第四期目)のハンガリーは、トルコや中央アジア諸国といったイスラーム教徒がマジョリティを占める国々との外交にも注力しており、その点からもパレスチナとの関係が、便宜上のものであれ、求められているのではないかと考える。また、レバノンでハマース戦闘員の殺害に使用された爆発機器(通信用のポケベル)がハンガリー企業のものであったという報道からも明らかなように、イスラエル周辺の中東諸国とハンガリーの取引関係も密なものであった。 (*6)オルバーンとネタニヤフの長い付き合いに関しては、以下の2つの記事を参照されたい。 Panyi, Szabolcs. “How the alliance with Israel has reshaped the politics of Viktor Orban.” From Direkt36 (2019/9/30): https://www.direkt36.hu/en/az-izraeli-szovetseg-ami-atirta-orban-politikajat/ ; Dezso, Andras. „The Roots of Orban’s Strong Bond with Israel and its PM.” From Reporting Democracy (2023/11/14): https://balkaninsight.com/2023/11/14/the-roots-of-orbans-strong-bond-with-israel-and-its-pm/ (*7)カステルのこのインタビューは、ハンガリーの保守系シンクタンクであるドナウ研究所が主管するHungarian Conservativeというオンライン・ジャーナルに掲載されたものである。”Only the Hungarians Can Understand the Uphill Battle Israel Faces ― An Interview with Robert C. Castel (Interviewer: Sáron Sugár)” From Hungarian Conservative (2023/03/02): https://www.hungarianconservative.com/articles/interview/robert-c-castel-interview-israel-palestine-when-innovation-failed/ (*8)このヘルツルの言葉は、ヘルツルがハンガリーの国会議員であったメゼイ・エルネー(Mezei Ernő)に宛てた書簡に記されていたという、ハンガリー系ユダヤ人に関する一文である。Kovacs, Andras. “Jews and Jewishness in Post-war Hungary.” InQuest. Issues in Contemporary Jewish History. No. 1. April 2010: https://www.quest-cdecjournal.it/jews-and-jewishness-in-post-war-hungary/#_ftn2
中井 杏奈