文化と暴力は地続きだった…ある演奏会で味わった「ガツンと殴られたような経験」から考えたこと
ドイツとは異なる事情で…
「10月7日広場」の名称を経て数ヵ月が過ぎ、ふたたび「テオドール・ヘルツル広場」へと戻ったその場所をわたしが訪ねたのは、今年(2024年)の夏になってからだ。 これまでなかった、真新しいメモリアル・プレートをそこに見つけた。それは、ハンガリーにおけるホロコーストの始まりから80年が経過したことを伝える碑文が刻まれたプレートだった。 第二次世界大戦中、枢軸側ではあったものの、国としての体裁をなんとか保っていたハンガリーも、1944年にはその領土が全面的にドイツに掌握され、ナチス傀儡の極右政権が樹立した。この極右政権の協力のもと、それまでは移送を免れてきたユダヤ系住民たちも、他の国々のユダヤ人同様にいよいよ収容所に送られることになった。それからは、ほんの3ヵ月程度という短い期間に、43万人のハンガリー・ユダヤ人が絶滅収容所アウシュヴィッツ=ビルケナウ(オシフィエンチム)に移送され、その多くがガス室で命を落とした。 なぜドイツがイスラエル支持の姿勢を崩さないのか――日本でも昨今、この問題に関心が集まっている。そのなかで、ホロコーストという個人と国家を巻き込んだ大きな暴力の主体としてのドイツの戦後の複雑な有り様と、その自覚をドイツ国民に担わせたホロコーストの「想起の文化」(記憶研究の大家アライダ・アスマンの同名の著作に由来する、集団的アイデンティティの形成に寄与するような記憶文化のありかた)との関係が論じられている。 ドイツ同様に、ハンガリーも是が非でもイスラエル支持を貫く国のひとつである。「平和が第一」(*3)というスローガンを掲げるハンガリー首相オルバーン・ヴィクトル率いるフィデス政権の公式の立場は、「ハマスのテロ攻撃を最も厳しい言葉で非難し、イスラエルの自衛権を擁護する」というものである。10月7日以降、パレスチナに同情的なデモを禁ずることがほぼ間を空けずに発表された。10月13日にハンガリー在住のパレスチナ人らが組織したデモも、ブダペシュト市の警察によって解散させられた。 しかし、ドイツとは異なる点も多い。 まず、戦後に領土が東西に分裂したドイツほど複雑ではないにせよ、共産化の道を歩んだハンガリー(を含む東欧衛星諸国)では、ソ連の方針を強く反映する対イスラエル政策に追随することとなった。たとえば、ソ連のいち早い決定にならい、1949年にハンガリーもイスラエルを国家承認したかと思えば、1967年の六日間戦争(第三次中東戦争時)には冷え込んだソ連・イスラエル関係の余波として、テルアビブに開設されていたハンガリー公使館を閉鎖した。1980年代後半、これもまたペレストロイカ期のソ連の影響で、一部の文化機関の関係が再開するものの、現在に至る本格的な外交関の再開は1989年を待たねばならなかった。 戦後すぐの時期、ホロコーストを引き起こした後ろめたさから、武器輸出や経済協力といった具体的な取引を通じて関係構築に勤しんだ(西)ドイツとは違い、ハンガリーとイスラエルの間に相互のコミュニケーションを妨げる大きな懸案は存在しなかった。イスラエルにおけるハンガリー系ユダヤ人のプレゼンスという面から見ても、首相を多く輩出するようになったポーランド系やロシア(ソ連)系ほどの政治的影響力は見られない。ハンガリー国内でも、イスラエルやその他第三国への出国などを理由にユダヤ系住民は(社会主義時代を通じて)減り続け、イスラエル建国時に13万人ほどいた人口も、現在では4万人程度にまで落ち込んでいる(*4)。 他方、1967年暮れの六日間戦争後、アラブ諸国との外国関係を見直したソ連にまたもならい、ハンガリーはパレスチナとの対外関係も構築してきた。1975年にはパレスチナ解放戦線の事務所がブダペシュトに設置、そして1988年にはパレスチナを国家承認もしている。2023年10月5日には、パレスチナの臨時首都ラマラーで職務にあたる大使を任命し、二国間関係をさらに発展させる旨発表するなど、こうした背景も(パレスチナを国家承認していない)ドイツなどの西欧諸国とは大きく異なる(*5)。 そうかと思えば、米国トランプ政権下で起こった大使館のエルサレム移転よろしく、2020年にはハンガリー対外通商部(公的政府機関)をエルサレムに設置するなど、イスラエル右派政権が喜ぶような政策を実施する。 イスラエル首相のネタニヤフとハンガリー首相のオルバーンは盟友だと言われている。その重なりは、どちらもヨーロッパ現代政治の産み落とした鬼子であり、選挙を通じた一見合法的なやり方で、民主主義を権威主義体制へと組み換えてきたリーダーであるというにとどまらない。 実は、オルバーンは最初に政権を取ったあとの、2002年の選挙で敗北したが、ネタニヤフと出会ったのはその下野中の2005年の出来事であるというのは、今日ではよく知られている。当時、財相であったネタニヤフの政治ビジョンに感銘を受け、二人の間には友情が生まれただけでなく、個人的な交流に根ざすイスラエルとの良好な関係を梃子に、第一次政権時に受けた「フィデスは反ユダヤ主義政治家を擁護している」という自身の政党への厳しい批判(そして、下野の理由はまさにこうした批判のためである)を払拭しようとしたのだ。イスラエルとの蜜月によって、まさにオルバーン政権の政治的な足元が固められたと論じる調査報道もある(*6)。 こうして、反移民・反ムスリム(キリスト者のヨーロッパを守というイデオロギー)を掲げ右へと大きく旋回したフィデスだが、オルバーンは必要に応じて「反ユダヤ主義に対してはゼロ・トレランスを貫く」と主張する。実際には苛烈な差別を行いながら、差別主義者と非難されないように、巧妙に人種差別の対象に優劣をつける。 (これこそ、ユダヤ人への差別を政治利用する、「反ユダヤ主義」そのものではないのか。) イスラエルの側からしても、「反イスラーム」を表看板に掲げてくれる国がヨーロッパ大陸にあるのは都合がよいに違いない。それが、パレスチナへの入植や爆撃への、無抵抗の市民を殺害することへの、隠蓑になるからだ。