《「100分de名著」で注目!》『恍惚の人』が半世紀前に予知していた…日本人がどんどん膨らませていった「老いと痴呆」への恐怖
現在は数多く刊行されている認知症関連の本のルーツをたどると、1972年刊行の有吉佐和子『恍惚の人』にたどり着くといいます。すぐに200万部の大ベストセラーとなった小説の主人公は、東京・杉並に家族と住む40代の立花昭子(あきこ)。姑が急死した後、84歳の舅・茂造が現在でいう認知症の症状を強めていき、彼女はフルタイムで働きながら、舅の介護に孤軍奮闘することになります。 【エッセイスト・酒井順子さんが、昭和史に残る名作から近年のベストセラーまで、あらゆる「老い本」を分析し、日本の高齢化社会や老いの精神史を鮮やかに解き明かしていく注目の新刊『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)。本記事は同書より抜粋・編集したものです。】
老いのパンドラの函を開けた
かつて私は何度か『恍惚の人』を読んだが、50代の“未老人”となった今、改めて読み返してみて迫ってくるのは、昭子夫妻が抱く「痴呆」への恐怖である。夫妻は、茂造の症状が深まる度に、自分達もああなるのではないかと怖れを深めるのであり、それは茂造の行動を見た高校生の息子から、 「パパも、ママも、こんなに長生きしないでね」 と言われて以降、ますます昂じる。 若い頃に『恍惚の人』を読んだ時は、茂造の痴呆症状や、昭子の献身ぶりにただ驚いていただけの私だった。しかし今、夫妻が抱える恐怖と不安は、自分が抱くものと同じ。おそらく1972年(昭和47)の日本人達も、この本がパンドラの箱を開けたことによって、痴呆症(当時)への恐怖、年をとることへの不安を発見してしまったのだ。 著者の有吉佐和子が本書を書くきっかけとなったのもまた、老いへの怖れだった。当時の有吉は、介護経験を持っていたわけではない。しかし「波」で行われた文芸評論家の平野謙との対談では、35歳の頃から記憶力の衰えを感じるようになったと有吉は語る。 それまでは「読んだものを忘れたことがなかった」というのに、忘れるようになって「大ショック」を受けた有吉。そこで彼女は、まだ新しい学問だったジェロントロジー(老年学)の勉強を始める。六年間勉強を続けた結果として書いたのが、『恍惚の人』だった。