なぜ「百人一首」の最初の歌は、「天智天皇の作」なのか…? じつは「意外な理由」があった
和歌の「オールタイム・ベスト100」
年末年始に「百人一首」のかるたをする……という人も、いまはあまり多くないかもしれません。 【写真】これは珍しい…江戸時代の「百人一首」の読み札 しかし、ときには日本の古い文化にふれ、いまの自分たちのありようを規定している歴史の流れについて考えてみるのもよいものです。 そんなときに最適な一冊が『百人一首がよくわかる』という本です。著者は、作家の橋本治さん。古典の現代語訳や解説でよく知られています。 本書は、百人一首を以下のように解説しつつ、百首すべてについて現代語訳と、それぞれの歌の味わい方を示していくのです。 〈百人一首は、鎌倉時代にできました。これを選んだのは、当時の貴族で、有名な歌人でもあった藤原定家と言われています。 定家は、鎌倉時代までの百人の和歌の作者と、その作品を一首ずつ選んで、『百人秀歌』というタイトルをつけました。和歌の「オールタイム・ベスト100」で、時代順に並べました。これが百人一首の原型と言われています。 さらに定家は、百首の和歌を一首ずつ色紙に書きます。宇都宮入道頼綱という人の別荘の飾りにするためです。定家は字がへただったのですが、入道がどうしてもと言うので、しかたなしに書きました。 その別荘のあった場所が、紅葉の名所として有名な京都の小倉山なので、この百枚の色紙を「小倉の色紙」と言います。百人一首は、この色紙から生まれたと言われています。〉 では、実際に「百人一首」に所収された歌を、橋本さんはどのように楽しんでいるのか見ていきましょう。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
なぜ「一首目」が「天智天皇の作」なのか?
【作者】天智天皇 【歌】 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 【現代語訳】 秋の田の 刈り入れ小屋は ぼろぼろで わたしの袖は 濡れっぱなしさ 【解説】 天智天皇は、大化の改新で有名な中大兄皇子です。蘇我入鹿を襲撃したのは十九歳の時ですが、いろいろ複雑な事情があったらしく、天皇として即位したのは、それから二十年以上後です。 天智天皇が死ぬと壬申の乱が起こって、天智天皇の息子の大友皇子と、弟の天武天皇が争います。結果は天武天皇が勝って、奈良時代の終わりまで天武天皇の子孫が天皇になるのですが、その系統が絶えて、再び天智天皇の孫が天皇になります。 それが、平安京を造った桓武天皇のお父さんで、そのため天智天皇は、「平安時代の天皇の先祖」という扱いを受けます。百人一首の最初が天智天皇になるのは、そういうわけです。 それにしても、この歌を見ると、「大昔の天皇はぼろぼろの小屋に寝泊まりして稲刈りをしてたのか?」という気にもなりますが、実際は「天智天皇作?」です。「昔の天皇はこういう苦しい労働を体験していてくれたんだ」という願望があって、それでこの和歌は、「天智天皇作」になったみたいです。 * さらに【つづき】「百人一首の「春すぎて」の歌から見える…ひとりの「女性天皇」の「意外な性格」」でも、百人一首の秘密について解説していまきます。
群像編集部(雑誌編集部)