元サッカー日本代表・坂井達弥が、なぜタイでドリアン作り!? 妻「これは本気だ」
元サッカー日本代表、タイでドリアン栽培農家見習い――。これは、アギーレジャパンでの代表キャップ「1」を持つ、坂井達弥(33歳)の現在の肩書だ。 【写真】サガン鳥栖&タイのクラブ時代の坂井ほか 「今は日々ドリアン農家で修業中の身ですね。夢は大きく〝ドリアン王〟(笑)。農業は甘くないし、生活も大変です。でも、サッカー選手として過ごした時間より、今のほうが充実しているかもしれません」 サッカーのようにプロ選手が多い競技は、引退後の人生で苦労するケースも散見される。そんな中で一念発起し、元日本代表選手が、ドリアンのためにタイに移住。異色のキャリアを歩む、坂井の軌跡を追った。 福岡県で生まれ育った坂井は、アビスパ福岡U-12に入団。その後、名門・東福岡高校で主将を務めるも、プロからのオファーはなかった。悔しさをバネに鹿屋体育大学に進学すると、左利きの大型CBとして飛躍を遂げる。 4年時の2012年にはサガン鳥栖の特別指定選手となり、ナビスコカップ第1戦でデビューを果たした。坂井が述懐する。 「高校時代は『やらされている』という感覚でサッカーをしていた面もあった。それが、大学では自由な環境でできるようになり、サッカーが本当の意味で楽しくなったんです。プロと練習試合をする機会もあり、『プロを抑えるためにはどうしたらいいのか』と具体的なイメージを持てたことも大きかったですね」 翌シーズンに鳥栖への加入が内定すると、2年目に大きな転機を迎える。クラブでもレギュラーをつかんでいたわけでなかったが、日本代表に大抜擢されたのだ。 14年9月に行なわれたキリンチャレンジカップのウルグアイ戦で先発起用されると、当時世界屈指のストライカーのエディンソン・カバーニと対峙した。坂井のミスから失点するも、『十分やれる』という手応えも感じた。周囲もこれから絶頂期を迎えることを期待していたが......ここからキャリアは下降線をたどる。 翌15年にレンタル移籍した松本山雅FCでは3試合の出場にとどまり、鳥栖に戻ってからの2年間はリーグ出場ゼロ。その後、J2で3チームを渡り歩くも満足な出場機会は得られなかった。ケガに泣いたこともあったが、〝元代表選手〟という期待も重荷となり、適応に苦しんだ。 「どのチームでも、『元日本代表だから』と期待度の高さを感じましたね。もともと器用なタイプではないので、自分を理解してもらうのにも時間が必要で、チームが変わるたびにそれがツラかった。ほかの人が当たり前にできることが時間をかけないとできなくて、悩んでしまいました。周囲からの見られ方と、自分の意識とのギャップがなかなか埋められなかったんです」 19年にモンテディオ山形を退団する際はJチームからのオファーはなく、タイのクラブから打診があった。以降の3シーズンはタイリーグでプレーするが、そこでも思い描いていたような結果は残せず。 22年はチーム探しに奔走するも、納得できる条件は得られなかった。日本に戻った後、選手として最後に届いたオファーは月収12万円程度と格安だったという。 帰国後は、教員免許を生かして「教師になるべき」と友人たちからアドバイスを受けた。それでも南国の気候や人々の優しさが坂井の心に染み、タイでの生活を望むようになっていた。最大の理由は、「初めて食べて以来、その魅力に取りつかれた」というドリアンだった。