水球だけやっていればいいわけじゃない――日本代表・新田一景が“水球のまち”で育んだ「社会貢献したい」という強い思い
水球日本代表・新田一景インタビュー【後編】
オランダ・エールディビジの水球クラブ『UZSC』でプレーする新田一景はユトレヒト近郊のカフェでこう呟いた。 「あのときのメンバーとまたやりたいな」 インターハイで全国を制した金沢市立工業高水球部は、部員たちが戦術を練っていた。パワープレーのバリエーションは1番から30番までナンバリングされ、大事な試合まで秘策をとっておきながら「今日は5番と11番と18番を使おう」と決めて目の前の試合に挑んでいた。 「だから相手に戦術がバレなかったんです」 自主性を尊重するボトムアップ方式のチームビルディングで、日本の頂点に立ったことは、後の人生に向けて大きな自信になった。 「そこまで許容してくれる監督がいたから、自分たちも伸び伸びと水球することができました。面白かったです」 顧問がブルボンKZの元選手だったこともあり、同クラブのU22に相当する新潟産業大への進学を新田は決めていた。そして彼は青栁勧に「大学に入ったら、自分はヨーロッパに行きたいです」と訴えた。 青栁は2010年、新潟県柏崎市にブルボンKZを立ち上げた人物で、新潟産業大の教員を務めながら水球部の指導もしていた。現役時代は長年に渡り日本代表プレーヤーとして活躍すると同時に、スペイン、イタリア、モンテネグロの各国でプロとしてプレーした。 「まだヨーロッパの情報がない時代、青栁さんは筑波大を休学して単身スペインに渡り、何も伝手がないなか、飛び込みでクラブを探してチームを見つけた、すごいバイタリティーのある方なんです」 当時のブルボンKZはモンテネグロの名将、ランコ・ペロビッチが監督を務めていた。 「大学1年のとき、ランコがモンテネグロのクラブを紹介してくれたんです。試合には出られなかったんですが、練習が日本とは180度違っていた。当時の経験は自分の水球のベースになってます」 日本の水球は「水泳競技の一つ」という概念から、泳ぎ主体の練習メソッドだった。しかし、モンテネグロは攻防時の基本となる立ち泳ぎの技術を重視した練習がメインだった。 「モンテネグロで足の練習をしたことによって自分のプレーの幅が大きく広がり、見える世界もガラリと変わりました」 ティーンエイジャーでヨーロッパに出て武者修行した経験は、今も新田のプレーに生きている。日本人の中でも体格の劣る彼は、水球の本場で習得した足の技術を生かし、ひと蹴りで移動する距離を伸ばすことによってプレーエリアを広げている。
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