原爆孤児だった夫妻のお好み焼き店、59年の歴史に幕下ろし閉店 守り抜いたワンコインの肉玉そば
ともに原爆孤児だった夫婦が広島市南区比治山本町で営んできたお好み焼き店が3日、のれんを下ろした。店主の梶山敏子さん(83)と夫の昇さん(84)。同じ境遇の2人が助け合って59年、店は地域に根付き、愛されてきた。支えてくれた人たちへの感謝から肉玉そばはワンコインを貫いた。 【画像】500円で提供されていた肉玉そば 「KAJISAN(かじさん)」は鶴見橋東詰めの交差点近くにあった。客が8人ほど入れば、いっぱいになる。60歳を過ぎたころから敏子さんが脳腫瘍やがんを患い、休業と再開の繰り返し。今年5月からは腰を痛めて休んでいたが、店を畳むと決めた。「お好み焼きで一番大切なのは火加減だと思ってきたけど、体をかがめて火加減を調節するのが難しくなってね」 敏子さんは1945年8月6日、上天満町(現西区)の自宅で被爆した。十日市町(現中区)に建物疎開の作業に出かけた母は帰ってこなかった。父を結核で亡くしており4歳で孤児に。「あまり覚えていない。親の顔も思い出せない」。祖父母に育てられた。 戦争で父を失い、母も原爆で犠牲になった昇さんと20歳で結婚。「原爆孤児同士の結婚」として、式は市内のテレビ局のスタジオを会場に全国へ放送された。65年、自宅前にあったバラックのお好み焼き店が立ち退いたタイミングで、夫の弟の勧めもあり「内職のつもり」で4畳半の店を開いた。 生まれたばかりの子どもを背負い、へらを握った。時には客が子守をしてくれた。工場で働いていた昇さんは出勤前、早朝からキャベツやもやしを仕入れた。「みんなのおかげ」と敏子さん。「でも毎日けんかばかりしてきた」と、昇さんは笑う。近年は外国人観光客も訪れるようになった。 昭和の終わりごろから、肉玉そばはずっと500円。53年に広島大教授の森滝市郎さんたちが呼びかけた、原爆孤児たちを援助する「精神親」の世話になったからだという。「皆さんに安くおいしい物を食べてもらうのが恩返し」と、物価高騰にあらがった。 敏子さんはひっそり店を閉じるつもりだったが、常連客が3日に「閉店式」を開いてくれ、花束をもらった。「なるようになると思ってやってきた。苦しいというより、楽しい人生だと思う」。鉄板の前に夫婦で立つと、笑みがこぼれた。
中国新聞社