<独占インタビュー>山本昌、パドレスから臨時コーチを打診されていた
山本昌は、でかかった。32年のプロ野球人生。50歳までマウンドに立った人は、まるでスケールが違う。誰がどこから見てもプロフェッショナルだ。引退カウントダウンとなった数年は、最年長記録ばかりがクローズアップされたが、積み上げた勝利は、219勝。41歳でノーヒットノーランの勲章まである。致命傷の怪我をしたわけでもない。ファームでは文句のつけようのない結果を出していたことも知っている。不世出の天然記念物として、どこまでやれるか見てみたかったが、残念ながら、中日という球団、さながら落合GMには、そういう観点がなかったと見える。 私は、山本昌を前にして、第一声、「まだ、できるのにもったいない。引退して時間が少し経過して、またやりたくなってきたんじゃないか」と声をかけた。 すると球界のレジェンドと言われた左腕は、実に、さわやかにこう答えるのである。 「それが逆。解説の仕事でプレミア12を見たときに、『ああ、もうここまで世代が変わったか』と思った。あの若くて実力を持った凄いメンバーを見て、ここに残れる道理はないなと」 ――自分なら?と想定しながら見ていたわけだ。 「このメンバーを抑えるのは無理だと思ったね。1番の秋山から始まって、山田がいて、おかわり君がいて、筒香がいて、中田翔が6番でしょ。あの打線を見て、これは辞めて良かったと(笑)。確かに悩んで決めた決断だったけど吹っ切れたよ(笑)。僕自身は選ばれなかったけれど、北京五輪のあたりは、侍ジャパンのメンバーを見ても、なんとかなるという気持ちは持てていたんだけどね」 ――引退して数か月になるけど、ぶくぶくとはなっていないね?笑。 「毎日、ウォーキングもしているし、初動負荷トレーニングも続けている。いつでも動けるようにはしておきたいな、と考えているから」 ――動けるように? 漫画「野球狂の詩」の岩田鉄五郎みたいに、いつか兼任監督として現役復帰を考えているんじゃないか? 「ないない。あるわけない(笑)。そんなことしたら周りに失礼だ。でも、もしかしたらキャンプでバッティングピッチャーとして投げるかもしれないしね」 ――聞きたいことは、山ほどあるけど、まずは背番号問題。背番号「34」をいきなりドラフト4位の左腕、福敬登投手(23歳、JR九州)がつけることになった。ファンの間では、賛否の意見がある。 「この背番号には、もちろん愛着はあったけれど、引退して球団にお返ししたものだからね。これからつけてくれる、福敬登投手を心から応援したいね。おそらく34をもらった福敬登投手が一番プレッシャーがかかっているかもしれない。何かと僕と比べられるだろうしね。ただ、ひとつだけ言えるのは『彼は僕よりも間違いなくボールが速い』ってこと。キャンプで会うチャンスがあるだろうから、そのことと『頑張ってやれ!』と伝えたいね」 ――それも伝承か。ここ数年はファームにいる時間が長かったけれど、若い選手があなたの背中を見てきた。これがチームの財産だね。走ること、トレーニングの大切さもそうだし、打たれてもロッカーに下がらない野球人としての姿勢、哲学もそうだったと思う。 「KOをされてマウンドを降りても、その回の攻撃が終わるまでは自分の責任回数。0-5で負けていても6-5で逆転してくれて勝ちがつくかもしれないし、それが当然だと思うし、僕は、そういう野球で育ってきた。KOされたピッチャーが、その後も見守らずにロッカーに戻ってアイシングでもしていたら、野手の人たちは『なんだ?』ってなるじゃない。信頼を失う。確かに中日の後輩のピッチャーは、僕のそういう姿を見て、責任回が終わるまで、ロッカーに帰らなくなった。スポーツ科学が導入され、どんどん野球は、合理化されているが、そういう伝統というか、古き良き野球にも大切なものがある」