夫の不在中、家にハンサムなスパイを招き入れ…プーチンが「すぐれた工作員」と称えた「3児の主婦スパイ」の凄さ
■ゾルゲは「西安事件」にも関与していた? 陳翰笙の回顧録によれば、ゾルゲは陳と知り合った後、誰か信頼できる中国の若者を紹介してくれるよう頼んだ。後に経済学者になる孫冶方を紹介すると、最初の面会で孫がロシア語で話し掛けたため、ゾルゲは何も言わずに立ち去ったという。ゾルゲは公の場ではドイツ語と英語しか使わず、ロシア語は使わないようにしていた。孫の対応に警戒し、もう孫には会わないと陳に伝えたという。 陳は三二年二月、ゾルゲの西安行きに同行した。ゾルゲは西安で、四年後の西安事件で張学良とともに蒋介石を監禁する西安事件の立役者で軍閥指導者の楊虎城将軍と面会した。 ゾルゲは楊と接触することで、西安事件につながる根回しを図ったかもしれない。陳は会談に同席せず、ゾルゲが何のために楊と会ったのか尋ねなかった。陳は「これが秘密工作のルール」としている。 蒋介石を一時監禁した張学良と楊虎城は後に反逆罪で蒋介石政権に逮捕され、楊は戦後処刑された。張は国民党政権とともに台湾に移送され、四十年以上軟禁された。台湾の民主化後、ハワイに移住して百歳で死去するが、西安事件の真相は死ぬまで明かさなかった。 ■ゾルゲを凌ぐ3児の主婦スパイ ゾルゲが上海でリクルートした大物女性スパイが、ユダヤ系ドイツ人のウルズラ・クチンスキーだ。彼女は上海でゾルゲと出会い、ゾルゲに魅了されて助手兼愛人になった。ゾルゲの推薦でモスクワのソ連軍情報本部でスパイ研修を受け、大戦中は英国で活動。三児の母を隠れ蓑に、欧米の核物理学者に接近して原爆開発情報の入手で活躍し、ソ連原爆開発の立役者の一人となった。ゾルゲが付けた暗号名は「ソーニャ」だった。 戦後、旧東独に住んだウルズラは『ソーニャ・レポート』という自伝を執筆。スパイ物のノンフィクションを得意とする英国のベストセラー作家、ベン・マッキンタイアーが二〇二〇年に出版した『エージェント・ソーニャ』(邦題『ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員』)で一躍世界に知られた。 自伝によると、ベルリンの著名な左翼経済学者を父に持つウルズラは、ドイツ共産党に入党し、ドイツ人の左翼建築家と結婚。夫が上海で建築業の仕事を見つけ、一九三〇年に移住した。上海の左翼活動家と交流する中でスメドレーと知り合い、スメドレーが彼女をゾルゲに紹介した。