「本当の復興」を目指して 宮古の遊覧船・うみねこ丸の船出と厳しかった父の奮闘 #知り続ける
ただ、私には父の思い出はあまりない。というのも、父はラグビー指導以外の時間は仕事ばかりしていたからだ。市内を走る唯一の循環バスや盛岡や仙台、東京までの高速バスの運営のほか、ホテル業など観光に古くから携わってきた会社に、30年以上勤めている。正月やお盆などの大型連休は繁忙期のため、家にはいない。だから、父の仕事のことは詳しくは知らなかった。 社会人になった今、なぜ父がそこまで仕事に打ち込めるのか疑問に思った。初めて父が働いている姿を見てみたくなった。
津波に耐えた遊覧船 被災地の注目低下で事業廃止に
宮古市は2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた。国内最大級の約15メートルの津波が押し寄せ、死者526名、行方不明者は114名に上った。県北バスではバス1台が津波に飲まれ、運転手1人が犠牲となった。父は当時、宮古営業所の副所長だった。「停電だったため、バスの中のテレビのニュース映像で津波を見ていた。その後、バスや運転手の安否確認のため車で海辺に向かおうとしたが、街中が瓦礫の山になっていて通れなかった。まるで地獄絵図だった」と当時を振り返る。 高校を卒業したばかりで実家にいた私は、地震の直後に宮古駅で父にばったり出会った。「津波が来るかもしれない。家に帰れ」と言われ、自宅まで車で送ってもらった。その次に父に会えたのは、震災から1週間ほどたった日のことだ。それまで父はほとんど不眠不休で未曽有の災害の事務処理に奔走していたという。そのとき初めて見た父の憔悴(しょうすい)した顔が印象的だった。 その時の父の働きぶりを、かつての同僚で、いまもうみねこ丸でともに働く八重樫眞さん(60)はこう証言する。 「当時、私は盛岡営業所にいた。被災者のためにも震災後すぐに宮古~盛岡間のバスを再開しようということになった。そんな中、大きな被害があった宮古にバスを走らせるのは相当な調整が必要だった。それでもスムーズにバスを走らせることができたのは、やはり隆文さんが宮古で尽力してくれたおかげだった。苦労している様子はみじんも見せなかったけど、彼でなければあの仕事は無理だったと思う」 県北バスはかつて3隻の陸中丸という遊覧船を所有・運航していた。だが、2隻は津波で流されて廃船となった。残りの1隻は船長の判断で沖合に逃れ、40時間以上も津波に耐えて被害を免れた。4カ月後に、残された1隻で営業を再開した。宮古市民のみならず、復旧・復興のために訪れたボランティアや観光客によって一時はにぎわいを取り戻した。だが、それも長くは続かなかった。 陸中丸は大型船で運営コストがかかるため、震災前から赤字経営が続いていた。船体の老朽化も痛手だった。何より復興が進むにつれ、宮古に滞在していた関係者も減っていった。被災地としての注目度も年々低下する中、2021年1月に58年間の運航に終止符を打った。