「優しさ・思いやり」重視の日本の人権教育、世界と深刻なズレ 政府の義務が自己責任にすり替えられる危険性
「思いやりアプローチ」の教育の危険性と本来の人権教育
国連も人権教育を重視してきた。1993年に採択された決議文では人権教育を「あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、他の人々の尊厳について学び、またその尊厳を社会で確立するためのあらゆる方法と手段について学ぶ、生涯にわたる総合的な過程である」と定義している。 つまり本来の人権教育では、自らの権利を知り、自分たちが権利の主体として、人権の実現のために行動するための知識を学ぶ。そして、そのような知識が人権実現への活動につながり、人権侵害を引き起こしている社会構造などを変えてきた。 一方で、日本の「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」には、人権教育とは「人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動」であると定義されて、個人が優しさや思いやりをはぐくむことを目的としたいわゆる「優しさ・思いやりアプローチ」の教育が強調されている。そして多くの人が、人権とはそういうものだと理解している※。 人権について思いやりを強調するときに起こる第一の問題は、「政府の義務」の議論が抜け落ちることだ。そのため人権問題が起これば、それは「自己責任」だといわれる。「政府の義務」の議論から注意を逸らすには、優しさ・思いやりと自己責任論の強調は好都合だろう。 実際、以前新聞に掲載された政府広報に「子どもの貧困 あなたにできる支援があります」として子ども食堂などを例にあげるものがあった。本来、政府には「子どもの貧困」という重要な人権問題を改善する義務があるにもかかわらず、この政府広報は、人々の「優しさ」に貧困問題を丸投げし、自らの義務を放棄しているといえる。 菅義偉首相(当時)は2020年の就任会見で「自助・共助・公助」という、自助を重視したキャッチフレーズを掲げていた。人権について「思いやり」を強調することで、政府は義務を回避し、人々への自己責任論を強固にしているのではないか。 また、優しさ・思いやりアプローチは普遍的な人権概念から見ても問題がある。人は自分の仲間には思いやりを持つことはさほど難しくはないだろう。しかし自分と異質な人たち、好きになれない、偏見を持つ相手には違う態度で接したり、差別的な扱いをしたりする傾向があるのではないか。それが特定の民族集団への人種差別政策となった究極のものが、ナチスによるホロコーストだった。 当時の世界では、一国の人権問題は国内問題で内政不干渉だと解されていたため、あの大規模人権侵害を食い止められなかった。その反省に基づき第2次世界大戦後、国連を作るときに国際社会は「一国の人権問題は国際関心事項」と決めた。 そして、1948年に「すべての人」が誰にも侵されることのない人間としての権利を生まれながらに持っている、ということを表明した世界人権宣言が採択された。人権の主体は「すべての人」である。この「普遍的」な人権概念が社会に根付かなければ、差別などの人権問題の改善は困難だろう。仲間への「思いやり」だけでは不十分なのだ。 ※ 例えば、大阪市立大学(現在は大阪公立大学所属)の阿久澤麻理子教授が1999年から2000年にかけて東京から福岡まで1736人の学校教員や社会教育の担当者を対象にアンケートしたところ、その多くが人権を思いやりなどの抽象的価値観と同一視していたという