「被爆から23日後、両親は姉を見つけた」しかし、その翌日に息を引き取った…フィルムに写る“おんぶされた男の子”が語り継ぐ家族の物語 きょう広島原爆の日
原爆が投下されて2か月後の広島を撮影した写したフィルムに写る「おんぶされた男の子」。2022年に「この男の子は私」と名乗り出たのは、広島県呉市に住む竹本秀雄さん(82)です。あれから2年、被爆証言をする機会も増えました。竹本さんが伝えるのは、家族の物語です。 【写真を見る】「被爆から23日後、両親は姉を見つけた」しかし、その翌日に息を引き取った…フィルムに写る“おんぶされた男の子”が語り継ぐ家族の物語 きょう広島原爆の日 1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めて原子爆弾が人の頭の上に落とされました。 当時3歳。自宅にいた竹本さんは、骨が見えるほど左のほほに深い傷を負いました。さらに、建物の下敷きにもなりました。そのとき、当時11歳だった兄の定男さんが見つけてくれたといいます。 竹本秀雄さん 「『秀雄がここにおる』と兄が見つけてくれた。その後、自宅は焼けてしまったので、兄が見つけてくれなかったら、私は生きていなかったと思う」 定男さんは、24歳のとき、交通事故で亡くなりました。「あんちゃん、ありがとうね」。竹本さんは毎日、仏壇に手を合わせています。 ■当時13歳の姉は両親と再会した翌日に… ことし7月、東広島市で開かれた原爆展に竹本さんの姿がありました。ここは2年前、竹本さんが初めて被爆証言をした場所です。 この日、10歳離れた姉の長女・君江さんの話をしました。当時13歳で中学生だった君江さんは、建物疎開作業中に被爆。その後の足取りが分かりませんでした。 竹本秀雄さん 「学徒動員の姉は行方不明のままだった。それがある日、『君江さんは、似島へ収容されとる』という情報が入ったんです。いつ聞いたのかは私は知りません。ただ、両親が似島に行ったのは29日。原爆から23日経っているんです」 両親が似島に着き、収容所で君江さんを探しているときでした。 竹本秀雄さん 「突然、向こうから『お父ちゃん、お母ちゃん』って声が聞こえたんですって。それが姉だったんです。だから、待っとったんでしょうね。親を」 家族と再会を果たした君江さんでしたが、その翌日の30日、13歳という若さで亡くなりました。