アウティングされ摂食障害に...伝説のテニス選手の「レズビアン公表」までの苦悩
女子テニス界を通して、女性の人権のために闘いつづけたビリー・ジーン・キング。彼女は後にレズビアンであることを公表しましたが、この決断までの道は決して楽なものではありませんでした。自身を見つめ直し、公表に至るまでの苦悩が自伝で初めて子細に語られます。 ※本稿は、ビリー・ジーン・キング著、池田真紀子訳『ビリー・ジーン・キング自伝』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
クローゼットの奥へ
75年の初め、インタビューを受けるとジョーに返事をした。案の定、ジョーからセックスに関する質問をされた。一部には無難な答えを返して切り抜けたが、答えたくないような質問もいくつかあった。 ジョーは私の性的指向に関する噂に触れ――記事に書く前提で――あなたはレズビアンですかと尋ねた。そう訊かれたのは初めてだった。 「性生活に立ち入られたくありません」 私は答えた。それはパットを含めた当時の広報担当者の常套句だった。それでやめておけばよかったのに、私は続けた。 「ただ、その質問に答えないでいると、何か隠していると誤解されそうです......だから答えます。いいえ、私はレズビアンではありません。まったく違います」 そのころ私は自分のセクシュアリティに関して、似たような欺瞞を繰り返していた。40年にわたってイラナを愛してきたいまなら、自分はレズビアンなのだとわかる。 しかしイラナと出会う前の私は、自分はこれこれこういう人間ですと宣言するのは、詰まるところラベルの問題にすぎないと自分に言って聞かせ、どれか一つを選びたいとは思わずにいた。 私は女性にも男性にも惹かれるのだから、自分がレズビアンだとは考えていなかった。ラリーとベッドをともにすることがなくなっていたわけではないし、そういうときなら自分は異性愛者だと答えただろう。 ジョーの質問に答えて、私はさらにこう続けた――どんな人であれ、誰かを傷つけないかぎり、人目を気にせず望むとおりの人生を送ればいいと思うと。 「私はあらゆる人の解放に賛成です。ゲイの解放だろうと何だろうと」 少なくともそれは噓ではなかった。ただ、その主張にさえ、私の人生の言葉にならない現実が反映されていた――私は自分を解放したかった。自分のはっきりしない態度に嫌気が差していたし、またも真実を隠さなくてはならなかったことも苦しくて、いっそ性的指向を公表してしまおうかと親しい友人たちに相談した。 やめたほうがいいとみなが口をそろえた。バージニア・スリム・ツアーのブランドマネージャーに就任していたエレン・メルローは、私がカミングアウトすれば、ツアーに悪影響が及ぶだろうし、私の今後の競技生活ばかりでなく、引退後はテレビ解説で生活するという計画まで狂ってしまうと言った。エレンの言うとおりだとわかってはいても、胸をえぐられるようだった。 『プレイボーイ』誌のインタビューは、私をクローゼットのさらに奥へと押しこめた。しかも壁が私を押しつぶそうと四方から迫ってきているように思えた〔この場合の「クローゼット」は「同性愛者であるという秘密」のこと。そのクローゼットから出る=同性愛者であると公表する意味で、「カミングアウト」という言葉が使われるようになった〕。 あれから無数のセラピーを重ねて、私の思考の筋道に私自身の同性愛恐怖が影響していたことをいまの私は理解している。ストレートの人は驚くかもしれないが、LGBTQ+の人々に対する社会の偏見は、当事者たるLGBTQ+の人々の心にも深く根ざしている。一昔前の世代となるとなおさらだ。 性的少数者のなかには、自分のセクシュアリティについてオープンに話すことにいまも抵抗を感じている人もいる。相手を信じて打ち明けてもいいのかわからないなど、過去からいまも続くさまざまな事情がもつれ合った結果だ。 クローゼットに隠れている人々は、誰と誰に真実を知らせるか自分がコントロールしているのだからと考えて心を慰めるが、現実には、自分がクローゼットに支配されている。 私はいまもその問題と闘っている。自分がレズビアンであることについて話そうとすると、緊張して胃がむかついたりすることもある。レズビアンという言葉そのものにすでに落ち着かない気持ちを抱いてしまう。 幼いころから、"レズビアン" "レズ"が侮辱として使われるのを何度も耳にしてきたからだ。私個人は、幸せとか楽しいという言葉を連想させるから"ゲイ"のほうがいい〔gayには「陽気な、明るい」という意味もある〕。とてもすてきな種類のダブルミーニングだ。