アウティングされ摂食障害に...伝説のテニス選手の「レズビアン公表」までの苦悩
隠れることの影響
レネの境遇については公然と擁護する一方で、自分の性的指向にはぐずぐず悩み続けている自分の不合理に、気づいていない訳でなかった。暴露されるのではと死ぬほど怯え、そうすれば自分のレズビアン疑惑に世の関心をなおも引きつけるとわかっているくせに、レネの問題に関して公の場で断固とした態度を取る。 当時はゲイと一緒にいればその人もゲイと決めつけられたから、キャリアを重ねるにしたがい、私とパートナーを組んだだけでほかの選手が詮索されるのを見て、私のいらだちは募っていった――つまり、私はこの先も同性の友達は持てないってこと? そういうことなの? 1970年代を通じて、私は自分の性的指向を隠し続けた。そのために自分の健康や人間関係で大きな代償を支払うことになった。 胃の不快感に我慢できなくなったときなど、病院で診てもらうと、胃潰瘍になりかけているかもしれないから消化のよいものだけを食べるようにと言われた。食べられるのは、バターをひとかけら載せたやわらかなトルティーヤくらいという日が続いた。 両親には時間が許すかぎり会うようにしていたが、それでも足りなかった。いつもは私一人で会いに行った。イラナとカップルであることをまだ認めていなかったから、一緒に行くとイラナが気まずい思いをするからだ。たまに2人で行ったときは、別々の部屋で眠った。 母は、私がある日異性愛者になるという希望をこのころもまだ捨てていなかった。ときおりこう尋ねてきた。 「新しいボーイフレンドはできたの、シス?」 このままではいけないと思った。50歳にもなるというのに、父を怒らせたり、母をがっかりさせたりしたくない一心で、きちんと話し合えずにいる。物心ついたときから、私は"よい子"であろうとしてきた。しかし、つねに"よい子"であろうとして、自分の人生をみじめにしているのだと気づくときが来た。
踏み出した一歩
私は車を降りて石敷きの私道の入口で立ち止まり、足もとのコンクリートの歩道との境目を見つめた。この境界線を踏み越えた先は、フィラデルフィアのレンフルー摂食障害治療センターだ。 アメリカ摂食障害協会(NEDA)のウェブサイトによれば、摂食障害は「年齢、性別、ジェンダー、人種、民族、社会経済的地位を問わず」誰でもかかりうる病気だ。 どんな人のリスクが高いか、一概にはいえないが、思春期にかかる患者が多く、また女性が多数を占める。私のように、中年期まで病気を隠し続ける患者もいる。 過食性障害――私はこれに当てはまる――は、現在のアメリカでもっとも診断数の多い摂食障害だが、私が治療を受けた時点で最新版だった『精神疾患の診断・統計マニュアル』(第四版)には掲載されていなかった。 先に挙げた2種類にぴったり当てはまらない患者は、"そのほかの摂食障害"にまとめて押しこまれていた。私の当初の診断もそうだった。 私は食べること、否定することで処理しきれない感情、心の痛みを伴う感情を麻痺させようとしてきた。 アウティングされたあと、フランク・デフォードとの共著で自叙伝を大急ぎで刊行したとき、私は初め『はみ出し者(Misfit)』というタイトルを考えいた。つねに隠し事をしているせいで世界と壁で隔てられていて、いつもその外側から世界をのぞきこんでいるように感じていたからだ。 それから10年が過ぎた1990年、『ライフ』誌の〈20世紀のもっとも偉大なアメリカ人100人〉に、エレノア・ルーズヴェルトやマーティン・ルーサー・キング牧師、アルベルト・アインシュタイン、ボブ・ディラン、ジャッキー・ロビンソン、モハメド・アリと並んで選ばれたときもまだ、私はその感覚と闘っていた。 選ばれたこと自体はたいへん光栄だ。それでもこう自問し続けていた――世の中は私を偉大な人間だと考えているのに、なぜ私はこんなにみじめなのだろう。何がいけないのか。 レンフルーで、その疎外感も摂食障害の症状の一つなのだと教えられた。グループセラピーや家族の参加が重要とされる理由はそれだ。イラナは約束どおり、セラピーへの嫌悪感を捨て、当初からこう言ってくれていた ――「これを乗り越えるために私にできることがあれば何だってする」 両親の協力を取りつけるのはそう簡単ではなかった。家族セラピーのためにフィラデルフィアまで来てくれるよう説得するのは難題だった。そもそも私にセラピーが必要な理由を理解できなかった。 私のセクシュアリティについて、あるいは私は摂食障害かもしれないということについて話し合うのに尻込みした。二人ともほぼ完全な否認の状態にあった。その様子を見て、私は思った――ついこの前までの私とまったく同じだ。 まずは電話会議方式で二度、家族セラピーに参加してもらった。お願いだからレンフルーまで来てと懇願を繰り返して――私は説得を拒み続ける両親に怒りを覚え始めたが――ある週末、やっと来てくれた。本当は来たくなかったのにという風だった。しかし、私の回復にはどうしても必要なプロセスだった。