83年の大噴火で約400棟を埋めて焼き尽くした「三宅島」。最終避難バスが出発した10分後には溶岩流が…その噴火の歴史をたどる
◆千数百人が避難 さらに、翌日夜半には雄山山頂の大穴(おおあな)火口からも噴火し、北東の方向に火山灰を降らせた。24~26日が噴火の最盛期で31日以降には弱まったが、8月に入り、再び活発化。降灰などもあったが、8日には終息した。 噴火は実に25日近くも続き、死傷者のほか、牛が35頭、全壊、焼失した家屋が24棟と大きな被害をもたらした。 そして、22年後の1962(昭和37)年に再び噴火災害が襲う。このときの噴火活動は30時間程度で終息している。 雄山山頂から赤場暁方向に割れ目状に噴火口が多数でき、活動最盛期には溶岩流は沖合まで流れ、島の北東部だけでなく、三宅島から北西に45kmの新島(にいじま)まで火山砂[*]や火山灰を降らせた。このときの噴出物の総量は1940(昭和15)年の災害に比べれば、およそ半分の約2000tと少なかった。 三七山(さんしちやま)という噴石丘ができ、家屋5棟や道路、山林、耕地にも被害があったが、死傷者はいなかった。しかし、噴火活動が落ち着いてからも激しい地震がたびたびあったため、9月1~14日、小中学生や関係者など千数百人が島を出て千葉県館山(たてやま)市方面へと避難したのだった。 *火山砂……火口からの噴出した溶岩流を除いた噴出物である火山砕屑物のうち砂粒程度の大きさのもの。学術上の火山砕屑物の分類では使用されない名称。
◆過去に例のない噴火の連続ですべての島民の避難を決断 記憶に新しいのは2000(平成12)年の噴火だ。これにより、ほとんどの島民が島外に避難することになってしまった。 当初、島の南西部で火山性地震が観測され始め、島の南部から西部にかけての噴火の可能性が高いとされた。しかし、地震の震源は次第に西方の沖合に移動し、西方沖約1km付近で海底噴火が起きたと見られた。地震活動は徐々に収まり、6月26日から発令されていた避難勧告は29日には解除された。 しかし、安心したのもつかの間、7月4日には雄山山頂の直下を震源とする地震が観測され、地震活動が再び活発になった。さらに、8日には雄山山頂で小規模な噴火が起きた。このときにできた直径約700~800mの陥没は8月中旬には直径約1.5km、深さ450mのカルデラへと拡大していた。 8月10日に大規模な噴火が発生して噴煙が約8000mの高さに達した。さらに、14日に山頂からの小規模噴火、18日には10時52分に震度4の地震が発生したうえ、17時2分には大きな噴火が起き、噴煙が1万4000mまで上がった。 当時、島にいた人は静かに火山灰が屋根に落ちるサーッという音を家のなかで聞いていたという。島民たちは過去に経験したことがないような噴火活動の連続に不安を募らせていた。 8月29日になると、山頂から北東側に約5km、南西側に約3kmの距離を低温ではあったが、火砕流[*]が流れた。31日には火山噴火予知連絡会が今後、高温の火砕流発生の可能性があることを発表。9月1日には全島避難が決定し、2~4日の3日間ですべての島民の避難が完了した。 島民たちが去ったあとも噴火活動は続いた。噴火活動は火山ガスの放出活動へと変化していき、9~10月では1日に2万~5万tもの二酸化硫黄が放出された。 徐々に火山活動は収まっていったが、火山ガスの放出は続き、これにより、当初は短期間で終わると思われていた島外避難は実に4年半近くにもおよぶこととなってしまったのだった。 *火砕流……噴火によって放出された固体物質と火山ガスなどが混じった状態で、地表に沿って流れる現象。時速100km以上、温度数百℃に達することもある。 ※本稿は、『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(清談社Publico)の一部を再編集したものです。
風来堂
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