【イスラエル取材記・後編】エルサレム旧市街の“静けさ” テルアビブで感じた異様な日常
■武力衝突後、イスラエル国内で感じた世論の“変化”
私はハマスによるイスラエルへの攻撃と、イスラエルの報復が始まった12日後から、イスラエルに入った。取材を始めた当初のイスラエル国内は、“ハマスによる攻撃は、第二次世界大戦のホロコースト以来、最多のユダヤ人が殺された”テロだとして、好戦的なムード一色だった。10月20日発表の世論調査では「地上侵攻すべき」と答えた人は65%を占めていた。 しかし、10月27日には半数近くの49%が「地上侵攻を待った方が良い」と答え、11月10日には「人質解放や人質の情報などを条件とした停戦を支持する」と答えた人の割合は、およそ60パーセントを占めるようになった。時間が経つにつれ、次第に停戦を望む声が大きくなっていることがわかる。 一方、イスラエルのネタニヤフ首相の支持率は、ハマスによる攻撃を防ぐことができなかった上、人質の奪還にも時間がかかっていることを受けて、低下したままだ。国民はネタニヤフ首相へのいらだちを募らせていて、取材中も至るところで首相への厳しい言葉を耳にした。
■係争の地「ゴラン高原」もヒズボラの攻撃に備え…緊張状態に
イスラエル北部にも足を運んだ。ガリラヤ湖近くのキブツ(=生活共同体)には、北部の国境沿いの町から避難している人がいる。イスラエルの北には隣国のレバノンがあり、そのレバノンにはハマスへの支持を表明しているイスラム組織「ヒズボラ」が活動している。避難してきた人が住んでいた町は、ヒズボラからの攻撃を受けたという。 イスラエルが抱えている“緊迫の最前線”を取材するため、「ゴラン高原」にも足を運んだ。ゴラン高原は、シリア・レバノン・イスラエルに接する場所にあり、水源があることから軍事上の要衝として知られている。シリア領であったが、1967年の第三次中東戦争を契機にイスラエルが占領を続けている。道沿いにはシリア軍が残した地雷原に立ち入らないよう示す黄色い標識と鉄条網が並んでいるほか、シリア軍施設の遺構も至る所に残されている。 眺望の良い地点からは目を上げると、レバノンとの国境にありヨルダン川の流れを発するヘルモン山、眼下にはシリアの町が見渡せて、ゴラン高原が軍事上の要衝といわれる理由を実感することができる。ここを押さえると、シリアもイスラエルも上から見渡せるのだ。カメラのファインダー越しにはシリア国旗が見え、崖下に足を踏み出せば、シリアの町にものの数分でたどり着けそうな場所である。 係争の地「ゴラン高原」は第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でシリアが一時的に奪還したが、結局、イスラエル側が再占領した。展望台には、その再占領を誇るイスラエルの勇ましい記念碑が建てられていた。 この軍事上の要衝であるゴラン高原にあるイスラエル軍の拠点を、今回、日本メディアとして取材することができた。「詳しい位置は一切明かすな」とイスラエル軍担当者の注意があった上で報道陣が案内されたのは、「ヒズボラ」との戦闘に備えて配備されているロケットランチャーの前だった。 ハマスの大規模攻撃があった10月7日の翌日、レバノン側からこのイスラエルが実効支配する地域に砲撃があった。「ヒズボラ」が犯行声明を出し、パレスチナの人々との「連帯」を示すために砲撃を行ったと主張した。その後も攻撃は続いていて、イスラエル軍は軍備を強化し、ヒズボラの攻撃にも備えているのだという。 現場にいたイスラエル軍兵士は「ガザ地区だけではなく、この地域も守らなければいけない。こちらの準備は整っている」と勇ましく語った。