道長も困惑した「一条天皇」暴走する“皇后への愛” 花山院の藤原忯子への寵愛も格別なものだった
その日の日記に、道長は「彰子に女御宣旨が下った」と記しながら、右大将の藤原道綱や民部卿の藤原懐忠、太皇太后宮大夫の藤原実資など、慶賀を奏上した面々の名を書き連ねた。「なんども盃を交わした」とも書かれており、道長のご機嫌な様子が伝わってくる。 だが、注目すべきは何が書かれなかったか、である。まさに同じ日、定子が第2子で、第1皇子となる敦康親王を出産しているが、道長は一切触れていない。 さらにいえば、定子が2度目の出産を行うにあたって、竹三条宮に移ることになったときのことだ。道長はわざわざその日に宇治へと遊覧に赴いている。
この行動に実資は「行啓を妨害する行為だ」と道長を批判している。実際に、道長の不興を買うわけにはいかないと、多くの公卿が参内しなかったという。 ■定子へのこだわりに道長も困惑か 一方で、道長に付いて宇治の遊覧に出かけた公卿は、藤原道綱と藤原斉信の2人だけ。大半の公卿はこれから先の展開が読めずに、様子見を決め込んだようだ。 政権を盤石にしつつあった道長にとって、一条天皇の定子への思い入れは、さぞ厄介なことであっただろう。
一条天皇とて、何も定子のみを寵愛したわけではない。 長徳2(996)年には、藤原公季の娘・藤原義子が入内して女御となり、さらに、右大臣の藤原顕光の娘である藤原元子も入内して、女御になっている。さらに2年後には、藤原道兼の娘・藤原尊子が入内している。 定子が「長徳の変」によって没落すると、周囲が色めき立ち、各方面から働きかけがあった結果だろう。 それにもかかわらず、周囲から反発を受けてまで、定子を寵愛したのだから、よほど思いが深かったのだろう。
思えば、かなりの女好きだった花山院もまた、最愛の女御である藤原忯子への寵愛は、格別だった。忯子が病死して失意の底にいたところを、藤原道兼に騙されて出家。その後に、一条天皇が即位している。 一条天皇からすれば、「長徳の変」さえなければ、最愛の定子が悲劇的な運命をたどることはなかった……という思いもあったことだろう。 この事件は、藤原伊周と弟の隆家らが、花山院に矢を放ったというもの。原因は、伊周が一条邸の光子のもとに通っていたところ、そこに花山院がいたため、嫉妬して暴挙に出ることになった。だが実は、花山院は、光子ではなく、その妹の儼子(たけこ)のところに通っていた。