道長も困惑した「一条天皇」暴走する“皇后への愛” 花山院の藤原忯子への寵愛も格別なものだった
なにしろ、一条天皇との間に御子が生まれるのを心待ちにした定子の父・道隆は、すでに病死している。また、定子が御子を産むことで、権力を掌握しようとした定子の兄・伊周にいたっては「長徳の変」で失脚。太宰府に流されることになった。 当の定子も兄の不祥事の責任をとり、剃髪して出家。藤原道隆を祖とする中関白家は、没落の一途をたどっていた。そんななかでの定子の懐妊および出産は、周囲を大いに戸惑わせたようだ。 長徳3(997)年6月22日、一条天皇は、生後約7カ月の脩子内親王とともに、定子を職曹司(しきのぞうし)に移している。
職曹司とは、中宮に関する事務を扱う役所「中宮職」の一局だ。内裏の東側に隣接していることから、人目を忍んで通いやすいと、一条天皇が考えたのだろう。 だが、すでに定子は自ら出家した身であり、しかもその原因は兄・伊周の不祥事である。まさしく事件の真相究明が行われているときに、定子が宮中に呼び戻されたのだから、公卿たちの不満も大きかったようだ。 藤原実資は日記の『小右記』で「天下、甘心せず(天下は感心しなかった)」とし、宮中が歓迎ムードとは程遠かったことを記している。さらに「太(はなは)だ稀有なことなり(とても珍しいことである)」と言葉を重ねて、一条天皇の行為を批判している。
だが、一条天皇はそんなムードに屈することなく、定子を寵愛し続けた。これまでも皇妃が職曹司を利用するケースははあったが、滞在は短期間なものばかり。 それにもかかわらず、定子は3年にもわたってとどまっている。そればかりか、一条天皇との間に、2人目の子どもまで宿すことになった。それも男の子が生まれたのだから、宮中がさらにざわついたことは言うまでもない。 もちろん、実権を握る左大臣の道長が、この状況を静観するはずもない。長保元(999)年11月1日に娘の彰子を一条天皇に入内させた。さらに6日後の11月7日、彰子に女御宣旨が下されることとなる。