釜石・野田武則市長の会見(全文2・質疑応答)防潮堤と防波堤は必要
災害基本法を改定して、県の代行制度を新設
通訳:本当に日本全国、そして世界に伝えるべき教訓というのはたくさんあると思うんですれども、その教訓の中の1つは、日本は海岸沿いの地域で原発を造るべきではないというようなことが1つの教訓というふうに思われますでしょうか。 野田:そうですね。それは教訓の1つだと思いますが、ただ、海沿いがすべて危険ということではないんだろうと思います。これは、学術的にもよく検討しながら、まさにそういう危険な場所には造らないと。あるいは造るに当たってはより安全な基準を作って造るべきだろうと思っております。まさにこれが今回の、3.11の大きな教訓だと思います。 通訳:釜石の場合、市役所のほうにいた議員の皆さん、そして市役所の皆さんも幸い生き残ったということは、やはりその直後の対応などに役に立ったと思いますでしょうか。やはり違う自治体ですと、市役所の皆さんが命を落とされたということもあったと思いますので、その混乱の中での対応は、それは大きな意味は持ったでしょうか。 野田:被災したとはいえ、市の職員が、多くの市の職員が健在だったと。あるいは議員の皆さんも健在だったということは、その後の被災された皆さんの対応とか、あるいは復旧、復興に大きく影響したと思います。例えば隣町は大槌町というところでございますが、大槌町では町長さんはじめ、職員の皆さんもかなりの方が犠牲になられておりまして、私も震災後、確か2週間ぐらいして岩手県の知事と一緒に訪問させて、もっと早いんで、1週間ぐらいですかね。訪問させていただいた経過もありますけれども、やはり職員がいないということは、これは大変なことです。 ですから、今回の反省の上に立って、国のほうでは災害基本法を改定をいたしまして、県の代行っていう制度を新たにつくりましたですよね。当時は県の代行ってなかったわけですよ。ですから、町長さんが亡くなっても、町長さんの代わりの職員がいるわけですから、いわゆる代理という形で職務を遂行してはいただいたと思いますけども、それでもやっぱり大きな違いがあるわけですよね。 ですから、いまとなってみれば皆さん、喉元過ぎて、忘れてる方も多いのかもしれませんが、当時はやっぱり避難場所での、被災された皆さんの日常の食べ物とか衣類の配分ですらなかなかたぶん、手が届かなかったではなかろうかと思います。もちろん釜石でもそういう部分がありましたが、それでも他の町から比較すれば、われわれは十分やったつもりなわけですよね。われわれとしてはやったつもりなんですが、ただ、その比較してるわけじゃないので、どうのこうのということはできないと思いますけれども、ただ、想像するにそういう町では、被災された皆さんに対する支援すら満足に行うことができなかっただろうということは想像できます。スタートからもう違いますよね。 要はそれから、避難場所での生活から今度は仮設に移るためのいろんな仕事をしてかなくちゃないですね。土地を見つけて仮設住宅を建てる。あるいはその間に今度はがれきの撤去をしていく。あるいはご遺体の火葬をどうするかとかやっていかなくちゃない。そしてまた今度は、すみません、長くなって、新しいまちづくりのための合意形成もしてかなければならない。とんでもない仕事がいっぱいあるわけですよ。結果やっぱりどうしても、遅れたということはちょっと適切ではないかもしれませんが、不十分な部分はあったのではないかと想像されます。