日本の労働組合の成り立ち、特徴と春闘システム
「企業別」「工職混合」が中心
世界で最初に労働組合が結成されたのは、産業革命が進展していた英国で、18世紀半ばの頃であった。日本で労働組合が結成され始めたのは19世紀末頃といわれている。 わが国の労働法研究の泰斗、菅野和夫東京大学名誉教授は、先進資本主義諸国において、労働組合の対する法政策には、「禁圧、法認、助成、現代的規制」の4つの段階が成立していたと分析している。 日本における草創期の「労働組合」は、事業所別に結成されたが、労働者の団結を目指し、全国組織や産業別の労働組合を志向していたとされる。しかし、治安警察法や治安維持法などによる弾圧によって、労働組合への禁圧の時代が続き、1940年には政府の戦時体制の下で、労働組合は解散させられて「大日本産業報国会」に集約され、戦前の労働運動は終息した。 45年の終戦後、労働組合法や日本国憲法の制定、また、連合国軍総司令部(GHQ)による労働組合奨励政策などを背景に、各地で急速に労働組合が結成され、49年には労働組合組織率は55.8%に達した。 戦後結成された労働組合は、大企業では初めから企業全体としての単一の労働組合だったわけでなく、まず事業所毎に労働組合が結成され、事業所ごとの労働組合が企業全体の労働組合の連合体組織に結集し、連合体から単一の労働組合組織へと推移し、今日のような企業別労働組合が形成されていった。 戦後日本の労働組合が、企業別労働組合が主流となり、それが今日まで維持されている理由については、多くの研究の蓄積があり諸説あるが、最も大きな理由はその労働組合自身が企業単位での組織を選好したためであろう。 また、戦後日本の企業別労働組合は、ブルーカラー中心だった戦前のそれと異なり、製造業を例にとれば、「職員」(ホワイトカラー層)と「工員」(技能職のブルーカラー層)が、同じ労働組合の組合員である「工職混合組合」という形態をとっている。戦後の混乱期の人員整理に対抗するためや、当時の職員と工員の間の大きな処遇格差・差別に対し、その解消を労働組合の運動方針として掲げて取り組んだことなどによるといわれている。将来の経営幹部となりうるホワイトカラー従業員層を同じ組織の組合員としている点(※2)は、欧米の職種別労働組合と大きく異なる特徴である。 日本の企業別労働組合の組合員は、労働組合員としての側面と、同じ企業内の従業員という側面を併せ持つ。この両面は企業別労働組合が、同じ企業に働く労働者の団結という目的と、雇用の基盤である企業の発展に協力的であること、すなわち、企業別意識が強くなるという性向を併せ持つ。労働組合は前者については非正規雇用の労働者を組合の仲間に迎え入れることを忘れてはならないし、後者については妄信的にそこにウェートを置くことがあってはならない。