「僕は間違ったのか」あふれるがん情報に踊らされ…余命宣告の母と息子 最後の2カ月間
■ 余命宣告も…「奇跡的な治療法があるかも」
「もう打つ手はありません、もって3カ月です」 2023年6月、医師からそう告げられた。「余命宣告」だった。 「じゃあ、9月のあなたの誕生日をぎりぎり祝えるね」 母の気丈な発言とは裏腹に私と父の心境は穏やかではなかった。 その時に初めて、自分の母に死が近づいていることを実感した。 「残された時間をともに過ごしたい」、その一心で私は休職を決意した。 まだ、他の手段があるかもしれないと、別の病院にセカンドオピニオンを聞きに行った。 「打つ手はありません」 その言葉を聞くたびに、患者である母よりも私のほうがうなだれていた。 「大丈夫、きっと何とかなるよ」。そう言って逆に母が私を慰めてくれたのを覚えている。 「医者に見放されたが、何か奇跡的な治療法があるかも知れない」 来る日も来る日も、私は必死になってインターネットにあふれるがん治療の情報を拾い集めた。 重曹にクエン酸を混ぜた水。 がんに効果があるとされるサプリメント。 独自のがん治療法を載せているクリニック。 藁にもすがる気持ちだった。まともな精神状態ではなかったと思う。 寝たら母が死んでしまうのではないかと思い、満足に眠ることもできなかった。 振り返ってみると、私たちが試した民間療法や治療法に効果はほぼなかったように思う。 そうした“努力”と裏腹に、母の病状はどんどん悪くなっていったからだ。 歩くことも食事も困難になってきた。ベッドから起き上がるのもままならず、病院に行くのにも車いすが必要だった。
■ 久しぶりの母の笑顔… だがその翌日に
8月に入り、母の55歳の誕生日が近づいてきた。 今年は母の好きなケーキと洋服をプレゼントしようと考えていた。 そんなある日、母が何気なく私にこう言った。 「あなたが地元を離れてからあまり話をしていなかったね」 大学の話。馬鹿な友人の話。仕事の話。色々な話をした。 母が笑った顔を見るのは久しぶりだった。 次の日の夜、母の容体が急変して、父の車で病院に向かった。 車内では、母の手を離さないように強く握っていた。握っている力を緩めたら、母が離れて行ってしまうようで手を離すことができなかった 診察室に入ると、主治医から「今日がヤマです」と告げられた。 「何とかなる、大丈夫」 そう自分に言い聞かせた。 しかし、様々な感情が堰を切ったようにあふれだしてくる。 「まだ何もできていない、親孝行も出来ていない、早すぎる、置いていかないで」 そんな思いは届かず、病室に響いたのは心肺停止を伝える無機質な音だった。 親族に囲まれながら母は息を引き取った。 医師から受けた余命宣告より1カ月も早く、母はいなくなった。 この悲しみをどこにぶつけていいかわからなかった。 「俺の誕生日まで生きるって言ったのに」 やり場のない悲しみと後悔だけが残っていた。