福井、日本史上で独特“キャラ” 因果巡る道、平泉寺~永平寺~一乗谷
北陸新幹線の敦賀までの延伸や、NHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が過ごした地として紹介された福井が観光地として注目を集めている。京都の裏庭のような位置にあることもあり、日本史の中で独特の存在感を放っている。類のないほど“キャラ立ち”した一つ一つの史跡や観光地とそれらを巡る因果を体感しようと、現地に足を運んだ。 ▽漂う妖気 石川、岐阜との県境をまたいでそびえる白山連峰の福井県側の玄関口にある白山平泉寺は、それ自体が巨大パワースポットだ。空を画する高い杉木立に囲まれ、一面苔(こけ)むした境内。「苔寺」といえば京都の「西芳寺」が有名だが、そのスケールやある種の“妖気”という点では到底、平泉寺には及ばない。 717年に僧泰澄が開いたとあるが、それ以前からあった霊峰・白山への信仰や修験道といったものが混然一体になっているのだろう。平安後期には多くの僧兵を抱え、天台宗の比叡山延暦寺の傘下に入った。平家物語には、荘園などの利権を巡り、延暦寺をして朝廷に強訴せしめた旨の記述がある。 戦国期には、48社36堂に僧院6千僧兵8千を数えたというから、その権勢が推して知られる。車で訪れると、まだ何も見えない田園に「下馬大橋」というこんもりとした林がある。そこがかつての参道の入り口だったといい、約1000年前に九頭竜川の石で整備されたという数キロの旧参道を踏みしめることができる。 ▽行雲流水 山地から福井平野に戻る途次に、1244年に道元が開いた禅宗、曹洞宗の大本山、永平寺がある。曹洞宗は末寺が1万4600余りあり、浄土真宗本願寺派(西本願寺派)と真宗大谷派(東本願寺派)を合わせた浄土真宗には及ばないが、単独では最大勢力。門前は観光客や土産物屋が多く平泉寺より世俗に近い感じだが、深い杉木立に抱かれるさまは、京都や奈良にある大寺院にはない威厳と威圧感がある。 「只管打坐(しかんたざ)」は「ただひたすらに座る」という道元の教えだ。哲学書とも評される「正法眼蔵」を著した開祖の、一切の混じりけを許さないストイックさこそが、この宗派の真骨頂だ。境内で作務(さむ)に当たる僧はまさに「雲水」と呼ぶべき雰囲気を漂わせている。このあたりが、同じ禅宗でも武家や富商、茶人と交わり「茶禅一致」といった言葉も生んだ臨済宗と違うところだ。 ちなみに、禅寺の主要施設である「七堂伽藍(がらん)」は斜面に配置されており参拝には結構な体力を要する。また宿泊して実際に雲水の修行生活を体験することもできる。 ▽100年の栄華 永平寺から山を下り、足羽川沿いの道から少し横に入ると一乗谷朝倉氏遺跡がある。両側に山がある南北2キロ弱の細長い谷の部分を、そのまま城郭としていた。1972年から50年以上に及ぶ発掘調査で、南北朝時代から戦国時代にかけ朝倉氏5代約100年にわたって栄えた当時の町並みや人々の生活が明らかになった。埋もれていた町が出てきたという点で、ベスビオ火山噴火の火山灰によって封印されたイタリアのポンペイ遺跡と同じだ。 朝倉氏は、もとは守護の斯波氏の家臣として越前に入ったが、下克上で主家を追いやった戦国大名。初代孝景が家臣らの集住や人材育成、能力による登用を定め繁栄の基礎を築いた。人口は1万人ほど。復元された町並みの各戸には井戸や日本最古のトイレ遺構もある。博物館には、将棋の駒や大陸からもたらされた陶器といった出土品や、最後の当主義景の館の再現展示もあり、豊かな生活ぶりがしのばれる。 一乗谷には福井駅から「新感覚XRバス・WOWRIDE(ワウライド)いこっさ!福井号」が運行されている。車内モニターと窓面全体をスクリーンとして仮想空間をつくり、約30分の道中に朝倉氏の歴史を題材とした講談を聞くことができる。新感覚XRバスは、福井県立恐竜博物館、あわら温泉を訪れるルートもある。 ▽極楽と地獄 訪れた三つの場所を結びつけるキーとなるのが、浄土真宗を母体とした一向一揆だ。「進者往生極楽 退者無間地獄」(進めば極楽、退(ひ)けば地獄)の旗を押し立て、支配階級に襲いかかるエネルギーはすさまじい。加賀では一向衆徒が大名を追い出し約100年にわたって自治をするという世界史的な事件も起こった。 一乗谷の朝倉氏は、隣国加賀の勢いを駆ってくる一向衆徒に絶えず苦心した。対抗策の意味もあったのか、代々曹洞宗に帰依。義景の時には、一乗谷に滞在した室町幕府最後の将軍、足利義昭に上洛を求められたが、一揆対策を主な理由とし、ついぞ応じなかった。結果的に、これが朝倉氏の命運を決めた。 1573年、義景の代わりに足利義昭を奉じて入洛した織田信長が一乗谷に攻め込み朝倉氏は滅亡。5代100年の繁栄は余すところなく焼き尽くされた。翌年、勢力を伸ばした一向衆徒は、隠然とした権力を保っていた平泉寺を襲撃。白山麓の林間を駆け、6千といわれた僧院を灰にした。現在の「勝山市」の地名は、この勝利に由来する。 信長は8年後、京都・本能寺で家臣の明智光秀に殺される。実は、一乗谷の奥に信長に仕える前の光秀が所領としていた東大味という地区がある。光秀は、朝倉氏滅亡後の越前で一揆勢力掃討に当たった信長家臣の柴田勝家に、同地区を攻撃対象から外すよう依頼。災難を逃れた住民は光秀を祭る明智神社を建立した。今も、ごく小さなほこらが残り、歴史の因果を感じさせている。