発売から25年。椎名林檎『無罪モラトリアム』はなぜ衝撃と呼ばれたのか─亀田誠治が語る「ないがち」な革命
椎名林檎のファーストアルバム『無罪モラトリアム』のリリースから25年。「衝撃」と呼ばれたこのアルバムについてアルバム制作に携わった音楽プロデューサーの亀田誠治が振り返った。 【亀田誠治が語る】椎名林檎の印象は「おもしろい音楽の聴き方をする子」 亀田がコメントで登場したのは、J-WAVEで放送された番組『SONAR MUSIC』(ナビゲーター:あっこゴリラ)。オンエアは2月22日(木)。
初対面の印象は「音楽を垣根なく愛する人」
90年代後半、日本の音楽シーンは小室サウンドがブーム。バンドではMr.Children、GLAYなどがブレイクする中、衝撃的だと今も語り継がれるアルバムがリリースされた。それが椎名林檎『無罪モラトリアム』だ。 このアルバムは1999年2月24日に発売された椎名林檎のファーストアルバム。当時、自らを新宿系、歌舞伎町系と名乗っていた椎名は20歳だった。『歌舞伎町の女王』『幸福論(悦楽編)』『ここでキスして。』などの名曲が収録されており、当時売上は170万枚を超えるミリオンセールスを記録した。 そして、この『無罪モラトリアム』を椎名と一緒に制作したのが音楽プロデューサーの亀田誠治だ。このアルバムの制作当時、亀田は30代前半だった。 まずは亀田が椎名林檎との出会いや、そのときの印象を語った。 亀田:当時のレコード会社から連絡がありまして、「10代の素晴らしいシンガーソングライターがいる。今まで誰も書いたことのないようなメロディー、文語調の歌詞、むちゃくちゃサウンドもとんがってる。本当に素晴らしい才能だってわかってるんだけど、どういう風にこの人と一緒に音楽を作っていけばいいのかわからない。亀ちゃん、力になってくれないかな。だって、亀ちゃんの人柄があれば……」と言われて、「ちょっと待って。人柄かい」みたいな(笑)。音楽性じゃなくて人柄で指名されたな、みたいなのがありました。とりあえず1回顔合わせしましょうってことになり、僕のスタジオに来てもらったんですね。まず林檎さんが僕の部屋に入ってきました。 椎名は、スタジオの入り口にある亀田のCD棚を見て、「こんなにたくさんCDをお持ちでいらっしゃるんですね」と驚いていたという。 亀田:そこから美空ひばりさんのCDを取り出して、あとは映画『サウンド・オブ・ミュージック』のサントラを取り出して。あとはザ・ビートルズの『ホワイト・アルバム』を取り出して、「私、これ全部好きです」って。「あっ、ビョークもある」「これも好きです」「レディオ・ヘッドあるんですか」「これも好きです」と言って、CDをバッと僕の前に並べて。「MAXもあるじゃないですか」なんて言って出してきて。要するに、伝統的なロックサウンドから革新的なバンドサウンドから歌謡曲から、何から何まで、自分が好きだと思ったアーティストに対しては聴き込んでいて、それを「好きです」「私、大好きです」っていうことを表明する若いアーティストと、そのとき初めて出会って。 「当時は洋楽がカッコいいとか、そういう暗黙の了解みたいなのがあった」「自分が好きだと言う音楽は、とんがってる音楽にしなきゃいけない、とか」と亀田は振り返る。そんな中で椎名が、ジャンルを問わず「好きな音楽」にあげていったことが印象的だったという。 亀田:とにかく歌謡曲から演歌からポップスからクラシックから映画音楽まで全部が好きで、1曲1曲歌ってくれるの。空で覚えていて。『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアが歌う曲とかも歌ってくれたりもしたし、美空ひばりさんの歌も歌ってくれるし、MAXの歌とかもモノマネでやってくれたりするわけ。マライア・キャリーもやってくれた(笑)。そのときに僕はすごい世代が現れたなと。自分の好きな音楽に対して本当に垣根なく愛してる、好きだという言葉を使って、全部自分の歌い方で歌ってしまうアーティストに出会いました。笑いながら自分の好きな音楽を紹介してくれる林檎さんのことを覚えてます。僕がたぶん32、33歳の頃で林檎さんが18歳くらいだったと思います。