加部究のフットボール見聞録「サッカーにおける五輪の位置づけ」
サッカーがマイナー競技だった頃は、人生を一変させるチャンスだった
仮に五輪が秋開催なら欧州リーグのシーズン真っ最中。ボローニャで主軸のこの冨安などはクラブに出場拒否される可能性もある。(C) Getty Images
長く日本代表の左サイドを支えてきた都並敏史(ブリオベッカ浦安監督)は、「オリンピックに出れば人生が変わる」と思っていたそうである。 実際先達は、それを証明していた。1968年メキシコ五輪で日本が銅メダルを獲得すると、一気にサッカーという競技が人気になり、日本リーグ(JSL)でも人気カードには4万人の観客が集まった。だが以後アマチュア時代に日本が五輪に出場することはなく、JSLの平均観客動員は一時1000人台にまで落ち込んだ。 女子レスリングが五輪種目に加わり国民栄誉賞に選出されることになった伊調馨、吉田沙保里や、カヌーで初のメダリストになった羽根田卓也に象徴されるように、まだマイナー競技だったサッカーの選手たちにとって、五輪は人生を一変させる千載一遇のチャンスだった。 ただし国際的な見地に立てば、サッカーは五輪の中で最も熱量の少ない競技のひとつだ。歴史は古く19
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