沼津から三島へ、新幹線時代の到来に、老舗駅弁業者の歩んだ道は?
【ライター望月の駅弁膝栗毛】 「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。 【写真全10枚】肉は何枚も重ねて漬け、1枚1枚炙り焼きに
今年(2024年)10月で、東海道新幹線が開業60周年を迎えます。60年の歴史のなかで初めて新駅として設けられたのが、昭和44(1969)年4月25日に開業した三島駅です。いまでは朝夕の通勤用「こだま」の始発駅として、日中は2時間に1本「ひかり」も停まり、静岡県東部・伊豆地方の玄関口として大きな役割を果たしています。交通の要衝だった沼津と新幹線時代の三島、その両駅で駅弁を手掛ける老舗業者に注目しています。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第49弾・桃中軒編(第4回/全6回)
昭和25(1950)年3月1日、東海道本線・東京~沼津間の普通列車が電車化されて、「湘南電車」の愛称で親しまれるようになりました。「電車」による長距離列車の実現は、のちのビジネス特急「こだま」、そして、新幹線の開業に向けて大きな力となりました。東京方面から沼津までの普通列車は縮小されながらも健在。オレンジ色と緑色の塗色は、ステンレス車両全盛のいまも、「湘南色」と呼ばれています。
静岡県東部の出身、昭和生まれの私にとって、昔、沼津へ出かける日は、特別な1日。富士宮からも出ていた「沼津駅・富士急名店会館行」の路線バスのアナウンスを聞けばワクワクしましたし、公開と同時に観られる映画、近所にはない少し洒落た服もありました。そんな沼津駅前にあった桃中軒会館(富士急百貨店新館)の風景は、いまもうっすらと憶えています。今回は昭和後半の沼津・三島について、桃中軒・宇野社長に訊きました。
●夜行列車全盛! 桃中軒も24時間営業
―戦後になっても、東海道本線の移動需要は旺盛で、駅弁は盛況だったと思いますが、当時はまだ立ち売りだったんですね。 宇野:昔の文献になってしまいますが、売り子さんは歩合制で、駅弁の売り上げが当時の沼津駅長さんの月給よりもよかったと胸を張っていた売り子もいたと言います。私も「駅弁の売り上げで、家が建った」という売り子さんもいたという話を聞いたことがあります。その時代を知る方が昭和30年代ごろまでは弊社にいて、「お客さんの顔を見れば、買う人か買わない人かわかる」などと話されていたようですね。 ―当時は深夜営業もやっていたそうですね? 宇野:深夜営業というより24時間営業が基本でした。昔は夜行列車が多く走っていましたので、弊社も夜勤があり、調理場は列車に合わせて弁当を作り、売り子さんも列車に合わせてホームに行っていました。弊社会長の時代には、まだ深夜の駅弁販売をやっていたと言います。当時は、マイカーが一般的ではなく新幹線も開業前で、国内の長距離移動は在来線という時代に1駅1社の構内営業を担っていたわけですから。