沼津から三島へ、新幹線時代の到来に、老舗駅弁業者の歩んだ道は?
●新幹線開業! 桃中軒も三島進出
―昭和30年代以降、東海道本線全線電化、窓が開かない特急の運行開始で立ち売りも厳しい時代となります。そのなかで桃中軒は昭和37(1962)年、三島支店を開設されていますね。 宇野:2代社長・宇野三郎の時代ですが、新幹線の開業を見越した動きだと思います。新幹線の駅はさまざまな理由で三島に設けられることになりました。三島支店は単なる販売拠点ではなく、厨房も一緒に作り駅弁製造も行っていました。このお陰で、昭和39(1964)年10月から4年半後、昭和44(1969)年4月の新幹線三島駅開業時から新幹線改札内待合室などで売店営業を始め、売り上げにも大きな影響はありませんでした。 ―昭和40年代は、新たな取り組みも始められていますね。 宇野:沼津駅南口の本社社屋を高度経済成長のなかで8階建のビルに建て替えることになり、昭和42(1967)年に「桃中軒会館」としてオープンさせました。地下1階にお好み食堂など、7・8階が結婚式場、7階には東京のホテルからシェフを招いて洋食レストラン「スターダスト・ルーム」も設けました。このときの洋食のノウハウが、いまの弁当作りにも活かされていると思います。いまは「エイブルコア」という建物になっています。
●窓が開かない特急、新幹線の開業で、いち早く迫られた多角化
―他には、どんな多角化を図られましたか? 宇野:沼津市役所の食堂を担ったり、「ゴールデンスキリット」というフライドチキンのフランチャイズ店、「ぺスカ」というイタリアンの店、三島では「ラントレ・イズ」という喫茶店を手掛けました。この地域の外食産業の競争が激しさを増して、桃中軒としても対応を迫られていたようです。東海道では早くから特急の窓が開かなくなり新幹線もできたので、駅弁に頼らない取り組みも、いち早く取り組む必要があったのかも知れません。 ―一方、明治以来「鉄道のまち」として栄えてきた沼津ですが、昭和の終わりには沼津機関区も幕を下ろします。鉄道関係の方にも支えられていたんでしょうね。 宇野:“国鉄一家”という言葉もありましたが、沼津駅や機関区にお勤めになっていた皆さんには、有形無形いろいろな形で支えられてきたのだと思います。加えて、地元静岡地区以外でも、(戦前は)沼津まで東京鉄道局(注)管内でしたので、(静岡鉄道管理局管内となった)戦後も引き続き、東京方面の方々とのつながりも強かったと思います。 (注)国鉄では東京鉄道管理局から東京南鉄道管理局となり、いまはJR東日本管内。