主役ばかりじゃ良い舞台はつくれない・石井琢朗さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(44)
93年から試合に出続けさせていただいて、やっぱり慣れてきたんでしょうね。打つ方に関しては、そこそこ対応していたとは思います。あとは守備ですね。大矢明彦さんが監督になられ、サードからショートに変わった時(96年)が一番大変だったですね。守備面で神経を使うことが多かったので。逆に楽しかったですけどね。野球観が広がったっていうか。 (横浜が38年ぶり日本一の98年は)年齢的に一番良かったですよね。脂が乗ってきた時期でもありましたし、野球が一番楽しかった時ですね。同じ(昭和)45年組がちょうどいい感じで27、28歳っていう年齢に来ていた。谷繁元信とか波瑠敏夫、佐伯貴弘、一つ上になると進藤達哉さんとか。そういう選手たちとの切磋琢磨が(自分自身の)成績や数字につながったと思います。 近藤昭仁さんが監督の時の3年間(93~95年)に、その年代が鍛えられたんですよ。近藤さんが一番損した監督なのかなって思うんです。すごく厳しかったですし、僕らが怒られながら毎日毎日、試合に出てた感じですけど、その3年間があったから98年の優勝があるのかなと。
年間150安打は毎年クリアしていこうという目標でした。打率は変動があるので、気持ちに浮き沈みが出てきてしまう。安打数は足し算で増えていくだけなんで。2千本を意識したのは1500本打った時(2002年)です。あと3年ぐらいで2千だなって。そこにちょっと落とし穴があったんですよね。03年にどーんと成績が下がった(前年の156安打から96安打に激減)。気の緩みじゃないですけど、少し守りに入った自分がいた。全てがうまくいかなくて、ファームへ行かせてくれと直訴しました。1カ月間ちょっと若い選手と一緒にやって(野手に)転向した当時を思い出して初心に返りました。ここから頑張ろう、このまま終われないって自分をもう一回奮い立たせられました。 ▽膝のけがが阻んだ2500安打 03年シーズンから2千本までの年月って、プロ野球人生の中で一番しんどかった。それなりに数字を積み上げてきた(02年まで6年連続150安打以上)ので、周囲から見たら、そこが基本になってくる。それ以下は評価として絶対認められなかったんで。そういうプレッシャーとの戦いでもありました。ベテランになればなるほど、若い時に許されたミスも許してもらえない。やって当たり前ができなくなってきていたのが、その時期なのかな。周りの声も厳しくなって、そういうのが一気にのしかかって押しつぶされそうになっていました。