楳図かずおが「特異な感性」の持ち主でも、最期まで愛され続けた納得の理由
先月28日、漫画家の楳図かずおさんが逝去された。享年88歳で、7月に末期の胃がんが発見されたそうである。その数々の作品の偉大さもさることながら、「漫画家」という枠にとらわれない自由さというか広がり方というか、自身を何かに押し込めることなく常に愛とエンターテイメントを周りに提供しようとし続けた生き様は、多くの人から絶大な尊敬、感謝、感嘆、親愛などを集めた。訃報を聞いて惜しむ声がこれほど多い、異才の漫画家の生涯を振り返ってみたい。(フリーライター 武藤弘樹) 私もマンガは山ほど読んできたが、推しとして真っ先に挙げたい漫画家といえば楳図かずおだし、今まで読んだ中で最も心を揺さぶられたマンガは氏の『わたしは真吾』である。『わたしは真吾』を神聖視しすぎているのもあって、あれはマンガではなく哲学書か聖書か何かの類だと思っている。 主にホラーやギャグの名手として知られる楳図かずおさんだが、ジャンルの垣根を越えて縦横無尽に「ザ・楳図かずお」とでも呼ぶべき作品を描き続けた。それだけでも偉業だが、そのどれもが極上に面白かったのである。 そうした唯一無二の作家性は、楳図かずおさんの生い立ちや略歴と痛烈にリンクしている。「あの人だからあのマンガを描いた」という説得力ある一貫性が、作品にも氏自身の生き方にも備わっていたのだった。 ● 生い立ちとキャリア 奈良に育ち、大蛇伝説を聞く 楳図かずおさんの生まれは和歌山県で、幼少期は奈良県内の山間部で育った。父が聞かせてくれる地域の怪談に「お亀が池の大蛇伝説」という、夫が大蛇になった妻に追いかけられる話があって、それが子どもの頃とりわけ好きだった。後年、へびが登場する『へび少女』などのヘビを恐怖のモチーフとして描いた作品がいくつか生み出されることになるが、氏の”恐怖の原風景”とでもいうべき出発点はここにあったようである。
小学生の頃から貸本屋でマンガを読み漁り、描き始めもした。手塚治虫に大きく影響を受けるもオリジナリティを模索し、試行錯誤の末に自分なりの絵柄を完成させた。 高校3年生時、水谷武子さんと共作した『森の兄弟』でデビューし、その後はしばらく奈良県の実家で執筆を続けていたが、26歳のときに上京した。当初泊まるところはなかったが、知り合いの紹介で池袋の3畳半の安アパートに住み始めた。 ● 売れっ子漫画家の一方で 演技も歌手も、の多才ぶり 昼はマンガを描き、夜は時間が空いたので劇団ひまわりに所属して演技やバレエを習った。映画・ドラマにエキストラ出演するために丸坊主にされたこともあったという。 しかし1人で描くマンガと違って、誰かと協力する現場の仕事には別の楽しみがあった。それでもそちらを切り上げてマンガに専念したのは、劇団で宗教への勧誘があってそれが嫌だったからという話もあるが、マンガの仕事がおそろしく忙しくなってもいたからでもある。 連載の月刊誌3本と週刊誌3本に加え、読み切りもこなした。「朝8時に起きて午前4時まで仕事」という生活をしていたそうで、氏は「〆切を一度も落としていないのが自慢」と当時を振り返りつつ、「毎日死ぬ」と思いながら描いていたそうである。 1968年、激務がたたってか体調を崩し、執筆する雑誌を徐々に『週刊少年サンデー』へと絞っていった。するとだいぶ楽になったので、今度は作詞作曲を始め、自作テープをレコード会社に持ち込んだところ、歌手デビューが決まった。すると、今度は音楽の仕事が増えて、郷ひろみさんの曲を作詞するなどした。 マンガの連載は並行して行われていて、『週間少年サンデー』で『おろち』(69~70年)、『アゲイン』(70~72年)、『漂流教室』(72~74年)、『まことちゃん』(76~81年)など、数々のヒット作が生み出されることになる。 なお、『まことちゃん』作中に出てくる『ビチグソロック』(1976年)という曲が実際にリリースされ、マンガと音楽の活動がリンクすることもあった。