楳図かずおが「特異な感性」の持ち主でも、最期まで愛され続けた納得の理由
あるいは、そうでなくても話は最先端であった。美貌の大女優が自分の娘に脳を移植して第二の人生を謳歌しようとする『洗礼』(74~76年)に見られるラストの大どんでん返しは、まさしく近年の映画や小説で好んで用いられるようなストーリー展開で、それを今から約50年前にやっていた作品があることに驚かされる。 ● 「とにかく親しみやすかった」 人柄と作品に貫かれたもの 人柄は、とにかく親しみやすく優しかったと伝え聞く。晩年を過ごした吉祥寺および中央線ではトレードマークの赤白ボーダーを来て買い物や散策を楽しむ姿が頻繁に目撃され、「話しかけてもいいオーラ」が発散されている氏に意を決して実際に話しかけてみると、明るく元気に応対してくれたり、一緒にグワシポーズをしてくれたりしたそうである。吉祥寺という街を愛し、また街からも愛された存在であった。 「まことちゃんハウス」と呼ばれる、外壁が赤白ボーダーの家が「付近の景観を乱す」として近隣住民から訴訟を起こされた件は全国的に話題となったが、住民の請求が棄却される形で決着し、時を経た今では街の風物詩としておおむね親しまれているようである。 氏の逝去の報に接して、有名無名問わず多くの人が「自分にとっての楳図かずお」を交えながら追悼の意を表しているが、それだけ多くの人にそれぞれの思い出を与えてきたのは、偉ぶらずに全ての人にオープンだった氏の人柄に由来するものに違いない。 しかし、俗っぽい部分も残していた。「人気もほしいが芸術性もほしい、欲が深いタイプ」と自分を評価したり、自作曲をレコード会社に持ち込む際、「無名のプロデューサーに断られたら腹が立つと思って売れっ子プロデューサーに持っていった」りしたそうなのだが、そういうことをツルッと語ることができてしまう。俗っぽい部分を自然に残しているさまが、傍から見ると実にいい塩梅で力が抜けているように感じられるのであった。 これらのエピソードを紡ぎ合わせてみると、楳図かずおは自分に素直に「楽しく心地良いもの」を一貫して求めてきたのだということが見えてくる。時にその姿勢は貪欲ですらあって、通常ならマンガに日々の大半を費やしている人は意欲的に役者や音楽活動を始めようとしたりしないものである。しかし、それをやるのが楳図かずおであった。