「このチームと出会えたから30歳まで本気の野球ができた」ハナマウイ元主将・梅澤孝弥
~主将とマネージャーでは野球生活が一変
都市対抗後のチームには転期が訪れた。当時の主将が一身上の都合で退部することとなり同職が回ってきた。 「社長と取締役に呼ばれ、主将をやってくれ、と言われました。都市対抗は怪我で出場できなかったので、『東京ドームへまた来る』と強く思っていた時期でした。自分の気持ち、モチベーションを高めてくれました」 「都市対抗を終えて、『簡単に勝てるほど甘くないが、展開次第ではやれる』と思えた。チーム全体が強気、前向きになれていた時期でした」 梅澤が主将就任して以降のチームは右肩上がりで勢いに乗れた。オープン戦では企業チーム相手に互角以上の戦いを見せることもあった。 「主将1年目が終わりチームに手応えを感じていました。勝ちパターンも見え始め、オフ期間も同様な気持ちで活動していました。ところが、新シーズン直前になってマネージャー転身を命じられました」 「前年のマネージャーが2人とも退部したため苦肉の策。本西監督からは『今まで通りチームをまとめてくれ』と言われましたが主将に気を遣ってしまう。細かい事務業務にも忙殺され、自分の野球にも多大な影響がありました」 マネージャーは3年間務めたが、その間に都市対抗を共に経験したメンバーも次第にいなくなった。世代交代が進みチームカラーも大きく変わった。 「初期メンバーが減り雰囲気は変わりました。普段の明るさはあっても、試合中に逆境になった際に口数が少なくなり動揺したりする。また、実力あっても野球への向き合い方が浅く感じる選手もいました」 チーム内の変化は結果にも現れるようになり、オープン戦で学生に敗れることも増えた。「全国大会へ再び出場できるのか?」と気持ちも揺らぐようになった。
~チームと自身の未来を冷静に考えた末の退団
クラブチームには大目標が2つある。1つは都市対抗、もう1つは全日本クラブ野球選手権(以下全日本クラブ)で優勝しての社会人野球日本選手権(京セラドーム)だ。 「今年のチームには自信があって、全日本クラブ優勝は可能と思っていましたが、大和高田(奈良)に完敗。自分の中で答えが出たような感じでした」 都市対抗南関東大会での敗退後、「京セラドームを目指す一連の大会をもって本西監督が退任する」旨もチーム内では発表されていた。 「(本西監督退任を)聞いた時はショックでしたが、監督交代は野球には付きものなので普段通りで大会に挑んだ。『今年のチームで勝てないなら先はない』と覚悟持って挑んだ大会での敗退だった。そこが退団を決めた瞬間だったかもしれません」 全日本クラブ終了後、今後についても自問自答を繰り返した。チーム練習やオープン戦にも参加したが、情熱が冷めていることを実感した。 「ベンチ内に本西監督がいないことにも違和感を感じた。当たり前にいた人がいない風景は寂しかった。『僕の野球人生におけるハナマウイの章が終わったんだな』と思いました」 11月をもってハナマウイ野球部を退部、社員選手だったため会社も退職する道を選んだ。