江戸時代から「推し活グッズ」はあった? 歌舞伎が現代に残した“3つの影響”
江戸時代から現代まで続く日本の伝統芸能「歌舞伎」。社会に与えた影響は大きく、いま何気なく使っている物・事・言葉の中にも歌舞伎が由来になっているものがたくさんあります。 【写真】歌舞伎から生まれた文様とは 山陰地方(鳥取・島根)で呉服店「和想館」を経営。和と着物の専門家である池田訓之氏が解説します。
11,12月は歌舞伎界の一年の始まり
師走の京都を賑やかにしてくれるのが、南座で行われる歌舞伎の顔見世興行です。江戸時代から続く歌舞伎の世界では役者が劇場と一年契約を結び、始まりに一座を紹介するのが顔見世でした。現在行われている顔見世の中で最も古くから続いているのが南座のそれです。私もお客様と着物を着て毎年、南座の顔見世に向かいます。400年の歴史を刻む歌舞伎は、現代の我々に、意外な影響を与えているのです。
歌舞伎の歴史
時は1603年、徳川幕府が開かれ江戸時代が始まりました。自由な気運を世間が渇望していた折、島根県の出雲大社で巫女をしていた、阿国(おくに)を中心とした集団が、京都に出てきて四条河原で踊りだしました。 そのいでたちは、胸にロザリオをつけ、南国から伝わった派手な更紗(さらさ)文様の着物に、秀吉が朝鮮出兵を命じた当時に女郎が締めていた帯である名護屋帯をしめ、太い丸ぐけの腰ひもに房をつけて体に巻き付け、刀をさし、鉢巻を巻く。そして念仏踊りを河原で歌い舞いだしたのでした。自由な気運をもとめていた庶民の心は、たちまち阿国の集団に魅了されます。 風変わりなさまをすることを「傾く(かぶく)」といいました。ここから、阿国たちの踊りは「かぶき踊り」と呼ばれ、やがて傾いて歌い舞う様を歌舞妓(かぶき)と称するようになります。歌舞伎は全国に広がるのですが、女性が舞台で踊ることが風紀を乱すとして禁じられたので(1623年)、「妓」から「伎」を用いるようになり今にいたっているのです。
現代にも残っている歌舞伎の影響
・推し活 最近の流行りことばに「推し」や「推し活」があります。自分のお気に入りの人やもの(特にアイドルや芸能人など)を「推し」、それを応援したり愛でる活動を「推し活」と呼ぶのですが、実はこの「推し活」は元を辿ると江戸時代の歌舞伎に由来すると言われています。 顔に多色で筋を書き入れる隈取(くまどり)、一点をにらみ静止する見得、飛び跳ねながら進む六方、着物には大柄の文様や家紋をあしらい、見た目にわかりやすい歌舞伎は、江戸の庶民の心をワシづかみに捉えたのでした。 その頃は、今のようにSNSもカメラもありませんから、熱狂したファンは、役者の演者姿をまた普段の姿を描いた浮世絵をプロマイド代わりに集めました。また、芝居小屋には、中央には庶民向けの平な土間席があり、周りに桟敷(さじき)席がもうけられていました。 館内を見下ろす桟敷の最上席は、役者が挨拶に来る、幕の後にはさらに役者と食事ができるという特典付きでした。土間席の庶民から見上げられ、芝居の合間に役者の方から近寄ってきて話しかけられるという、最上席は、ファンにとってはまさに楽園でした。 楽園の坐を獲得した選ばれしファンは、芝居小屋中の視線を感じつつ、精一杯のお洒落な着物を着て芝居を観覧し、役者と交わり至福の時を過ごしました。そしてファンの多くが、一生に一度は最上席で芝居を見たいとあこがれ、楽園を目指したものでした。 これは、ファンが自分の推しの写真やグッズなどを買い持ち歩く、また、特別待遇を受けたいがためにCDアルバムや写真集を買いあさり、コンサートで前列の特別席に座り続ける、といった現代の推し活行動とどこか重なりませんか?