「アウシュヴィッツは空から降ってこない」――日常の延長線上にある「悲劇」を知るために最適の書
今も昔も変わらない権力者の手口
ハインツはその後も、収容所を転々とする。列車での移動中にイギリス軍の戦闘爆撃機から誤射されたり、最後は餓死寸前にまで追い込まれるが、ついにドイツ軍は敗北。針の穴を次々に抜けていくような幸運の連続により、彼は生き抜くことができたのだ。 それにしても改めて驚かされるのが、ホロコーストによる死者が600万人に及ぶことだ。殺された理由は、言ってみれば「ユダヤ人である」ということだけなのだ。第二次世界大戦の最中ではあるものの、実際には戦争と直結しない民間人の殺戮だった。親衛隊はユダヤ人が所持していた家や、金や貴金属などを奪った。果てはガス室から引き出した遺体の指輪や金歯まで抜き取りベルリンへ送り戦費にし、あるいは死者の頭髪を剃ってロープなどに再利用していたという。これではもはや組織的な強盗殺人ではないか。 ユダヤ人への差別はヨーロッパを中心に戦前から長く続いていた。本書でもその歴史に触れているが、例えば14世紀には「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」などのデマが飛び交い残酷な仕打ちも行われたという。日本の関東大震災時における差別事件と同様の文言に驚かざるを得ない。ヒトラーは、人々の差別感情を徹底的に利用した。第一次世界大戦でのドイツの敗北や賠償金問題、異常なインフレと大恐慌以降の失業者急増など、ドイツが抱える諸問題の原因はすべてユダヤ人にあると話を捏造し演説を続けた。 ハインツは記す。「独裁者やその他のさまざまなリーダーたちはしばしば、『ほかの集団』(略)による攻撃に曝されていると人々に信じ込ませることによって、自らの地位や権力を増大させる」。つまり、国民に不安を抱かせ、守れるのは強いリーダーだと洗脳し、造反する者は「愛国者ではない」として弾く。それは国民を戦争へと向かわせたい権力者たちが、今でも好んで用いる危険な手法だ。
差別の先にあるもの
差別からホロコーストへ、ナチス・ドイツを突き進ませてしまった苦い経験から、ユダヤ人に対する偏見や嫌悪意識を「反ユダヤ主義」と呼び、ドイツを含む多く国々で差別を戒めてきた。ところが去年の10月に起こった新たな戦争で様子が変わりはじめている。きっかけはパレチスナのイスラム組織ハマスがイスラエルにテロ攻撃を仕掛けたことだ。しかしイスラエルの反撃はあまりに凄まじかった。ガザ地区への猛攻撃は1年以上も続き、すでに4万人以上が死亡した。死者、行方不明の約半数近くが子どもだという。彼らは「ガザに生まれた」という理由だけで殺されたのだ。この無差別攻撃に対し世界各地から「虐殺だ」という声があがり、デモも起きた。これまでも中東では戦争が繰り返されてきたが、今回のガザ侵攻によって「あのユダヤ人が今度は虐殺する側に……」という批判につながっているようなのだ。 かつて、リトアニアの外交官だった杉原千畝は、逃げ道を失ったユダヤ人に対して「命のビザ」を発給、約6000人を救った。ところが昨今、その行為に対してまで「こんな残虐なことをするユダヤ人をなぜ救ったのか」という、言いがかりのような声までがネット上に躍るのだ。しかし当たり前だが、当時のユダヤ人=イスラエル軍では決してない。 アウシュヴィッツの悲劇から80余年。人種や属性で人々を切り分け差別する負の力は、最後は殺戮にまで向かう。あの戦争で人間はそう学習したのではなかったのか。進行中のガザでの虐殺行為はもちろん許されないが、批判のなかに差別意識が紛れ込めば、収拾は遠のき、社会は再び傾いていくだろう。 アウシュヴィッツは空から降ってこない――。本書を読み、この言葉の深意を今こそ噛み締める時なのではなかろうか。 ◎清水潔(しみず・きよし)1958年、東京都生れ。ジャーナリスト。新聞社、出版社にカメラマンとして勤務の後、新潮社「FOCUS」編集部記者を経て、日本テレビへ。記者、チーフディレクター、特別解説委員などを努めた。現在、早稲田大学ジャーナリズム大学院非常勤講師。著書に『桶川ストーカー殺人事件――遺言』(新潮文庫)、『殺人犯はそこにいる――隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(新潮文庫、新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞)、『騙されてたまるか――調査報道の裏側』(新潮新書)、『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)、『鉄路の果てに』(マガジンハウス)などがある。 ◎ヘンリー・オースター Henry Oster1928年、ドイツのケルンに生まれる。ウーチ・ゲットー、そしてアウシュヴィッツ、ビルナケウ、ブーヘンヴァルトの強制収容所を奇跡的に生きのびた。戦後、おじを頼ってアメリカに渡り、検眼士として働く。2011年、ケルンから強制移送された2011人のユダヤ人の最後の生き残りとして、かつて二度と戻らないと誓ったドイツを70年ぶりに訪れた。2019年、90歳で死去。 ◎デクスター・フォード Dexter Ford作家。
清水潔