「アウシュヴィッツは空から降ってこない」――日常の延長線上にある「悲劇」を知るために最適の書
「出口は煙突しかない」
今も、広大な敷地が広がるアウシュヴィッツ第二収容所のビルケナウ。レンガを積み上げ作られた「死の門」の先には、錆びた線路が延びる広い停車場(ランペ)があった。かつてここにユダヤ人を満載した貨車が次々に到着した。人々の7割以上はホームの先に建っていた火葬場(クレマトリウム)へと直行させられた。労働力にならない子どもはほぼ全員だ。ユダヤ人を部屋へ詰め込むと、天井の穴からチクロンBという毒ガスが入った缶が放りこまれる。隣は遺体を処理する火葬場だった。ここでは「門を入ると出口は煙突しかない……」と囁かれていたという。 アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の子どもは21万6000人とも言われていると、今回の取材で知った。とてつもない人数である。 44年8月。ハインツと母親はこのホームに降り立った。「男は右、女は左へ」と振り分けられた。母親はそのままガス室へ。子どもだった彼も同じ運命を辿るはずだったが、たまたま背が高かったため、馬の世話係を命じられる。当時のドイツ軍にとって軍馬は重要で、ユダヤ人の命より大切にされていたという。とりあえず助かったものの、待っていたのは過酷な労働や、極貧の食事という最悪の環境だった。すぐ隣で毎日のように人が死んでいく。一度、銃殺されるグループに入れられマシンガンの掃射を受けたこともあった。ハインツは運良く被弾しなかっただけだ。 ある日、馬車から落ちたパンを拾ったのをドイツ人将校に見られて、怒鳴られ短鞭で殴られる。絞首刑になるかもしれないと怯えたハインツはドイツ語で必死に謝り続けた。なぜドイツ語ができるのかを問われ「ぼくはドイツ人だからです。ドイツ系ユダヤ人です」と答えた。すると自身もケルン出身だという将校は驚き、周囲を気にして、怒鳴るフリを続けたもののハインツを赦し、最後にはパンとトマトを投げつけてよこした。「この出来事はドイツ人がわたしにしてくれた数少ない人間らしい行為の一つだった」とハインツは記している。差別とはいったい何なのか、考えさせられるシーンだ。