「境界」が生み出す宗教性
---------- 浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について書簡を交わす本連載。今回のテーマは「境界と聖性」です。(本記事は、「群像」2024年5月号にも掲載されています) ---------- 【写真】「古い寺院の中へはいるのは、自分の魂の中へはいるようだ」(ロダン)
境界と聖性
前回「塔と像をテーマに」との提案を受けた時、少し意外だったのですが、なるほど書簡を読ませていただき、腑に落ちました。今まで考えていなかった「聖性」の一面を知った思いです。もうずいぶん長い間にわたって書簡をやり取りしているのですが、実は自分が書いた内容はあまり覚えておりません。それよりも返って来る若松さんの言葉に、毎回深く考えさせられております。これはこれで、往復書簡の楽しみ方として悪くないと思います。 さて、今回、もう一度「塔と像」で返信しようかどうしようか迷ったのですが、いただいた論点を咀嚼しながら、「聖性とは」について考察することにしました。それで浮上したテーマが「境界」です。「境界」が生み出す宗教性について書いてみます。
「生ける概念」「死せる概念」そしてことばについて
概念に生死があることも、そして「論じることに終始する宗教は死に体」であるという指摘も、示唆に富んだ教示でした。ありがとうございます。ぜひ「聖典」や「奇蹟」についても取り上げたいです(いったいいつまで連載を続ける気なのか……)。でも、概念や聖典の前に「ことば」について触れたいと思います。 「ことば」というのは、考えてみればなかなかやっかいです。我々はことばを通じて概念を獲得しますよね。「イギリス人は肩がこらない」というジョークがあるそうです。英語には(というよりヨーロッパの言語の多くで)「肩こり」にあたることばが無いらしくて。だからイギリス人に肩こりは無い、というわけです。そして、もともと日本語にも「肩こり」は無かったらしいですよ。近代になって夏目漱石が『門』で「肩がこった」という表現を使い、志賀直哉が「肩のこり」と書いた。日本人はその時から肩がこり出したんですね。 イヌイットは雪を何十種類ものことばで表現すると聞いたことがありますし、日本語の雨の表現は二百以上あるそうです。二百は無理ですが、霧雨、春雨、小ぬか雨、時雨、五月雨、氷雨、などと十数個は簡単に思いつきそうです。もし、雨を表現することばが五種類しかなかったら、雨を五分類しか認知することができないのかもしれません。まさに我々はことばによって世界を分節しているのです。 仏教でも、我々は言語ネットワークによってこの世界を認知し、ことばによって存在や現象を認知していると考えます。 もちろん、ことばと実体とがイコールではありません。目の前に存在する猫と、「猫」ということばとは、あくまで別物です。われわれは「猫」ということばで、目の前の猫を把握したつもりになっていますが、本当にその存在をきちんと認識できているでしょうか。その猫はさまざまな要素の集合体であり、刻々と変化し続けている存在です。すでに私が認識した時点の猫から一瞬先へと変化しています。それに、そやつは他の「猫」とは異なる唯一無二の存在なのに、「猫」としてひとくくりに認知されてしまいます。固定され変化しない「猫」という実体は無いにもかかわらず、「猫」ということばで、ある枠組みで、切り取って認知している、これを仏教では「仮名(プラジュニャプティ=仮の設定)」と呼びます。そして仏教では、我々は勝手に自分の都合で存在や現象を歪めて認識しているとします。これを「妄分別(プラパンチャ)」と言います。このような認知の歪みは、私たち自身の苦しみや悩みを生み出すと説くのです。 そんな不確実な「言語」の上に、私たちの暮らしは構築されています。我々はことばによって傷つけられたり、苦しめられたり、悩んだりしていますよね。時にことばによって精神や身体が壊されることだってあります。 その一方で、ことばによって救われたり、支えられたりすることもあるわけです。近年、私が目撃した出来事をお話ししますね。 私が勤務している大学の同僚にK先生がいました。文化人類学がご専門だったのですが、若くして病気でお亡くなりになりました。闘病の最中、K先生はご自身にとって最後の教授会となる会議に出席し、自分の現状を説明されました。そのときに、自分の手帳を取り出し、「今、私は『明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生き続けると思って学びなさい』ということばに支えられています。だから、今も学び続けているんです」と語りました。これはガンジーのことばだとされているそうですが、詳しいことは知りません。でも、そのとき、我々がことばの中で生きているその姿を目の当たりにした思いでした。つまり、不確実だから、仮設定だから、虚構だから、踏んで通ればよいのではない、虚構だからこそ丁寧に大切に、畏敬の思いで常に手を加え続けねばならないのでしょう。