「日本は勝つ」信じた少年 長野県安曇野市穂高の赤羽さん、終戦語る
長野県安曇野市穂高の元中学校教師・赤羽正誼(まさよし)さん(91)は、松本市の中心市街地・上土町にあった「赤羽理髪店」の長男として生まれ育った。国民学校6年生、12歳だった昭和20(1945)年8月、「広島、長崎の次は松本に原子爆弾が落とされる、といううわさが広がった」と話す。8月15日の朝、疎開のため松本駅から電車に乗り、現在の安曇野市穂高の柏矢町駅に着いた。間もなく、うなだれている人たちを見て終戦を知った。 父・明雄さんが営む理髪店は、現在の松本ホテル花月の近く、老舗菓子店・東もん磯村の向かいにあった。「散髪の椅子が5台あって、にぎわっていた。常連の兵隊さんも多く、その姿に憧れていた」という。 夢は航空兵になることだった。月刊誌「航空少年」「飛行少年」を隅々まで読みあさった。今も十数冊を大事に持っている。 「近くの映画館・開明座で、『マー坊の落下傘部隊』という白黒のアニメーション映画を見た」と話す。戦意高揚を促す国策映画だった。日本は必ず勝つと信じていた。 自宅近くに井戸があり、母親と近所の女性たちが井戸端会議で「松本へ原爆が落とされる」と話していたことを記憶している。母と3人の弟や妹と一緒に疎開した日に終戦を迎えた。「その日、火の見やぐらに登ると、上空で米軍機が飛んでいた。来るなら来いよ。そんな気持ちで空を眺めていた」 戦争が終わり、母親が「父ちゃん、帰ってくるね」とうれしそうな顔をしていたのを覚えている。終戦間際に召集された父は、間もなく戻ってきた。父が持ち帰った「武運長久 四柱神社」と書かれた日の丸の寄せ書きは今も木箱に入れて大切に保管している。 赤羽さんは松本県ケ丘高校を経て中央大学法学部を卒業した。松本市の臨時職員から社会科教師へ転じ、中信地方の中学校で働いてきた。 「日本はどんな戦争をやってきたのか知りたいと思った」。戦後、戦争に関するさまざまな本を読んだ。今も図書館へ通い、いろいろな分野の本を読む。現在の最大の関心事は、ロシアとウクライナの戦争だ。「(ロシア大統領の)プーチンに負けたら絶対にいけない」と語気を強めた。
市民タイムス