短命の家系で、病弱だった松下幸之助 主治医を感嘆させた「病気を味わう生き方」
「健康結構、不健康また結構」病気と闘うのではなく、つき合い、味わう
呼吸器系が弱かった幸之助には、ほかに慢性膀胱炎という持病もあった。耐性の細菌のため膀胱炎が頻発、尿の回数が増え微熱が出る。悪化すると腎盂炎まで併発、高熱が出る。この疾病のため、月の半分は寝込むことも多かったいう。 そんな一患者としての幸之助に横尾氏が感銘を受けたのは、幸之助が長年のうちに、病気と「闘う」から「つき合う」、さらに病気を「味わう」までに心境を達観させていった点であった。「健康結構、不健康また結構」と幸之助はよく述べていた。多くの人は、病気に対して憎しみを持ち、闘うという気構えを抱きがちだ。しかしながら18、19の歳から病とつき合っている幸之助は、年来の憎むべきはずの持病に対して、その憎しみを捨てた。 自分の人生にネガティブなものは寄せたくないものだが、幸之助は、病気を自分の生活の一部に取り込んでしまったのだ。「もし病気でなかったら、あるいは頑健そのものだったら、今の松下はなかったんと違うか」と、幸之助は述懐している。
「3年後、4年後に死ぬと思ったら、何ができまんねん」
多くの親族を喪ったほか、船から転落したり、自動車に跳ねられたりと、幸之助の人生は災難のオンパレードだ。しかし、幸之助はそのたびにその事実を自身の強運と受け止めていく。 いっさいを受け容れる姿勢は自身の健康観にも及び、"弱い人は弱いなりの、蒲柳の質の者は蒲柳の質なりの健康というものがあり、その範疇で人生には幸せもあり、また仕事でもやりがいがある"と考えるようになった。 横尾氏は、幸之助が次第に「健康状態は一人ひとりみんな違うんや。わしは自分の資質に合った生活をしてきた」と語るようになったのを思い出すという。 その考えがさらに発展して、「人間はそれぞれもって生まれた運命というものがあり、それは本来そのまま素直に受け止めるべきものである。運命を味わって、何か足らないと思うなら、その足らない味付けをちょっとだけする。運命は努力して開拓していくものとは違うんだよ」という幸之助独自の運命観となっていったと、横尾氏は推測されていた。 病弱という運命ならば、それなりに体を処遇していけばよい。 横尾氏は、幸之助が「自然治癒力──人間の体は自分自身で治していく力があり、医者はその手助けをするに過ぎない」を信奉していたと説く。 そして、晩年よく発言したのが、「先生、病気と寿命は別物ですなあ。病弱だけれども自分は120歳まで生きるんや」という標題の言葉であった。 この言葉を家の中どころか、どんな席上でもはばかりなく公言するので、「あんな大きなほらを吹いて」と世間の人が思わないかと横尾氏は心配になり、あるとき、幸之助に「本当に120まで生きるおつもりですか」と尋ねた。すると、幸之助は笑って、こう答えたそうだ。 「そんなん3年後、4年後に死ぬと思ったら先生、何ができまんねん」どんな運命であろうとも、人生は意欲だけで盛大なものになるらしい。
渡邊祐介(PHP理念経営研究センター代表)